存在しない本が、禁書になった――ラジオリスナーが巻き起こした『I, Libertine』騒動

1956年、アメリカの書籍業界で発生した大混乱を、あなたはご存じだろうか? 全国の書店で、ある一冊の本に関する問い合わせや予約が殺到していたのだ。だがその本はいくら調べても、どのリストにも存在しない。いったい彼らは何を探し求めているのだろうか? 実は、この騒動はとある深夜ラジオが発案したいたずらであった。やがていたずらの規模は制御不能なものになり、なんと最後には存在しない本が発禁処分になるという異常事態が発生した。本コラムでは、ラジオパーソナリティジーン・シェパードが生み出した架空の書籍『I, Libertine』にまつわる騒動をご紹介しよう。


仕掛け人

本騒動の仕掛け人、ジーン・シェパード1は風刺の天才であり、優れたストーリーセラー2である。彼はそのトークを活かしてラジオパーソナリティのキャリアを始めるも、当初はラジオ放送局の経営陣とあまりそりが合わなかった。というのも、当時のラジオ業界は最新のヒット曲をかけ、雑談を最小限に抑えるという番組構成が主流だったため、彼のしゃべくりスタイルはマッチしなかったのだ。たとえ地元紙で「世界一の頭脳派ディスクジョッキー」と讃えられようとも、彼は一つのラジオ局に長居することができず、トレド、フィラデルフィア、シンシナティといった都市を転々とすることになる。

1955年、34歳になってニューヨークWOR3に雇われた彼には土曜午後の番組が割り当てられる。しかし、シェパードのスタイルはあまりリスナーに響かず、聴取率は良くなかった。そこで1956年1月、WORは彼の担当番組を平日深夜午前1時~5時30分の枠に変更する。おまけにニューヨークのスタジオを深夜営業するコストを渋ったため、ニュージャージー州カータレットの送信所での収録を強いられたのだ。

そこは窮屈で暑く、換気も悪いという劣悪な環境だったが、経営陣の目が届かないことは都合がよかった。おまけに番組は4時間半の長丁場。皮肉屋でおしゃべりのシェパードにとっては言いたい放題できる最高の状況である。そして彼のポップカルチャーの豆知識や鮮やかな語り口の巧みな展開を織り交ぜながらも、陰鬱で思索的な独白は午前2時のリスナーに熱烈に支持された。

ナイト・ピープル

番組のリスナーたちは「ナイト・ピープル」と呼ばれた。規則正しく夜寝て、昼に働く「デイ・ピープル」の対比というわけだ。「デイ・ピープル」たちは画一化された日常生活を送る堅物で、”正しくあること”を大切にする保守的な人物。対する「ナイト・ピープル」は行間の真実を探し求める、枠にとらわれない反権威的な人物で、世界を本当に動かしていたのは我々だ、というのだ。

シェパードは「まぎれもなく、私たちは世の中から外れたごくごくごく一握りの少数派だ」と連帯感を訴えた。そして彼は番組中、勝ち誇ったように「Excelsior!」と叫び4、そのあとすぐに「このバカめ……」と呟くのがおなじみだった。

ある日、シェパードは自分たちがメディアや広告業界にどれだけ踊らされているかを番組上で嘆く。例えば本一つとっても、メディアの評判次第だと。彼が語ったのは、自身が遭遇したこんなエピソードだった。

リストに支配された街

その日、ジーン・シェパードは怒り狂っていた。探していた書籍が書店になかったのだ。それも店員の態度が最悪だった。店内を探すこともせず、手元の刊行リストをちらりと見て「リストにありません。そんな本は存在しませんよ」などと言ってのけたのだ。彼は書籍の存在を確信していたにもかかわらず、店員の態度は変わることがなかった。

この件に限らず、インディアナ州ハモンド生まれのシェパードにとって、ニューヨークは不思議な街だった。

「週末はどこに行こう?」 「興行収入ベスト10に載っているあの映画を見に行こうか。」

「この本は面白いかな?」 「ベストセラーリストに載ってるんだから、面白いに決まってるさ」

一事が万事こんな感じで、ことあるごとに「ベスト10」、「リスト」が参照されているのだ。この街の「デイ・ピープル」たちはリストに執着し盲信していると、シェパードはそう感じ、驚いた。彼らは秩序に魅了され、リストを愛し、成功を掴むことに執着している。これらのリストは人間によって作成されていて、だからこそ作り手の偏見や恨みといったバイアスが反映され、不完全なものになりうるにもかかわらずだ。そして午前3時に起きている人は、そんな状況に内心疑念を抱いている……

その中でシェパードが最も腹を立てたのは、ニューヨーク・タイムズの書籍ベストセラーリストだった5。このリストの作成基準は単なる書籍売り上げだけにとどまらず、顧客からの要望や質問すら含まれており、書籍が売れていない場合でも、その問い合わせを十分に集めることでベストセラーリストに掲載されることがあるという。

シェパードは続ける。「明日の朝、私たち一人一人が書店に行き、存在しないとわかっている本を頼んだらどうなるだろう?」

『I, Libertine』

シェパードとリスナーたちは問い合わせる書籍の設定を詰めていった。タイトルは『I, Libertine』。日本語に訳すと『われ、色事師』といったところだろうか。内容は18世紀イングランド宮廷生活を舞台にした三部作の一作目だ。

また著者はイギリスの退役軍人で学者という設定のフレデリック・R・ユーイング。彼は妻のマージョリーとともにイギリスの田舎の邸宅に住んでいるという。

そして出版社はケンブリッジ出版局傘下のエクセルシオール6・プレス。もし、問い合わせた先の書店員が「ナイト・ピープル」ならば、「このバカめ……」と呟いて笑いが取れるというわけだ。

そして翌日、「ナイト・ピープル」たちが昼の舞台に解き放たれる――

書店の混乱

彼らは何百店という書店へと押し寄せ、『I, Libertine』について問い合わせた。当初は書店側もそんなものは存在しないと返答していたものの、2人、3人と問い合わせが続けば不安にもなる。書店員たちは互いに電話し、その本について知っているか、どこで入手できるのかを訪ねあった。

その本はどのリストにも載っていない。だがこれほど多くの人が多くの場所で求めているのだ。どこかにあるはずだ……

この問い合わせによるいたずらは、なんとアメリカ国内にとどまらなかった。どうやら旅客機の添乗員やパイロットにも生粋の「ナイト・ピープル」がいたようで、彼らはパリ・ローマといった渡航先の書店でも熱心に『I, Libertine』を問い合わせたという。

こうして順調に問い合わせを積み上げていったわけだが、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに載せるという計画は頓挫することになる7。リスナーの暴走により混乱が制御できなくなり、真実と虚構の区別がわからなくなってきたのだ。

書店にとどまらない混乱

あるリスナーによると、問い合わせの際、高慢ちきな書店員が「私はフレデリック・R・ユーイングはこれまでずっと正当な評価を受けていないと感じていたんだ」と答えたという。これだけならまだ書店内にとどまるちょっとした笑い話ですんだかもしれない。だが、この混乱はじわじわと書店の外へと独り歩きをしていくことになる。

別のリスナーによると、ある社交グループで『I, Libertine』のことを言及したところ、「その本を読んだことがある」と3人の女性が主張をし始め、好みの章について議論を始めたという。また、ある大学ではリスナーがユーイングについてをまとめた期末レポートを作成したところ、教授から激賞の言葉とともにB+の評価をもらったという。ニューヨーク・ポストのライターであるアール・ウィルソンはこの作家と昼食を共にしたとさえ主張していた。

このように、当初の目的だった書店を飛び出してリスナーたちが言及を始めた結果、「よくわからんが『I, Libertine』という本が存在するらしい」という認知が広まっていってしまったのだ。

最悪の出来事はボストンで起こった。大司教区で働いていたリスナーが「うっかり」『I, Libertine』を禁書リストに載せてしまったため、本書は存在しないのに禁書扱いになってしまったのだ。

種明かし

いたずらによる混乱は最高潮に達していた。シェパードはのちに「次は大統領がこれに言及するのでは」と当時の不安を明かした。「そうなったら、何も信じられなくなる!」

そんなとき、彼はウォール・ストリート・ジャーナルのカーター・ヘンダーソンから電話を受ける。「そろそろこの話を暴露すべき時ではないか?」と。こうして1956年8月1日、同紙夕刊一面にていたずらを暴露する記事が掲載された。これは1週間にわたる大ニュースとなり、記事はソ連の国営新聞プラウダにも一字一句そのまま掲載されたというから、当時の混乱のほどが伺える。

出版と騒動の収束

ただ、これだけ混乱が広まっているということは、裏返すとそれだけこの本にニーズがあるわけだ。ある日、編集者のイアン・バランタイン、小説家シオドア・スタージョン8、そしてシェパードの三人は昼食を共にしたことをきっかけに、バランタインはスタージョンに『I, Libertine』を実際に執筆することを依頼する。

シェパードが組んだプロットに沿う形でスタージョンは『I, Libertine』を清書し、ついに1956年9月13日にバランタイン・ブックスから同書は発売された。内容はランス・コートニーを名乗る野心家の物語で、その大部分は本コラムでも紹介したあのエリザベス・チャドリーの生涯に基づいたものであった。

フランク・ケリー・フリークスによる表紙には酒場の看板「Fish and Staff」として羊飼い(Shepherd=シェパード)の杖とチョウザメ(Sturgeon=スタージョン)が描かれ、真の著者がほのめかされている。裏表紙にはシェパード扮するユーイングが、何とも言えないさえない表情で著者近影として写されており、「ナイト・ピープル」が手に取ればにんまりできる外見だったというわけだ。もちろん、おなじみのフレーズ”Excelsior!”も表紙に描かれていた。

『I, Libertine』の出版は、ある種騒動の収束に役立った。つまり、混乱していた各メディアたちは、このいたずらが単なる安っぽい宣伝活動に過ぎなかった、本を売るためだったと片付けることができたからだ。実際のところ、書籍販売による収益はすべて慈善団体に寄付されたものの、例えばUPI通信ではシェパードの行動には営利目的があると強く示唆していた。


以上が架空の書籍として生み出され、大混乱を巻き起こした末に実際に出版された『I, Libertine』の物語である。いかがだっただろうか。個人的には、よくこの程度の混乱で済んだな、という感想を抱いた。というのも、騒動のきっかけを要約する9と、こうなるからだ。

ジーン・シェパードというインフルエンサーが「ナイト・ピープル」と「デイ・ピープル」という対立構造を煽り、ラジオというネットワークサービスを通じて『I, Libertine』というデマを扇動した

2020年代に生きる我々なら、これがまさに現在ネット上で問題になっている社会現象と構造的に似通っていることに気が付くだろう。そして現代では、こうした問題は時に刑事事件にまで発展していることも。アメリカ中で迷惑を巻き起こした騒動ではあったが、だれも物理的に傷つかなかった10のは、幸いだったと思う。

しかし、ある意味シェパードがいう通り「ナイト・ピープル」が世界を動かしたこの騒動だが、「書店に問い合わせる」という画一的な方法で実現したのは、なんとも言えない皮肉さを感じる。

最後にシェパード本人の言葉を引用して、本コラムを締めようと思う。

人は、一歩踏み出して自分で考えることを心から恐れている

ジーン・シェパード


参考文献

注釈


  1. 同名の女性カントリー歌手がいるが別人 

  2. 最高のクリスマス映画の1つと称されることもある1983年のアメリカのコメディ映画『クリスマス・ストーリー』の原作者でもある 

  3. AMラジオ局 

  4. 「夜の仲間たちよ、前へ!」といったニュアンスで用いられた 

  5. 現代でもデータ解釈方法は公開されておらず、その権威に対して選定方法には不透明な部分があると批判されることがある 

  6. Excelsior! 

  7. シェパードは「実際にベストセラーリストに載った」と主張するも、事実として確認はできていない 

  8. 当時カルト的人気があった、”文学性”を持ち込むことで50年代のSF観を揺さぶった作家。今でもファンは多い 

  9. 現代観点で見た作為的な要約ではある 

  10. 社会的に傷ついた人はまあまあいる気がする

カテゴリー: 文学 | タグ: , , , , , | コメントする

貴族を自称した正真正銘の貴族――”二重に高貴な被告”エリザベス・チャドリー

1776年4月、前年に勃発したアメリカ独立戦争の最中、イングランドの貴族院では戦争そっちのけである一つの裁判の行方に注目が集まっていた。被告人はかつて社交界で名を馳せた美女。彼女に突きつけられた罪状は「重婚」。貴族にとって政治的にも経済的にも重要な戦略の一つである”婚姻”だが、なんと彼女は伯爵と公爵という二人の貴族と婚姻関係にある、と訴えられているのだ。本コラムではイングランド史上唯一、貴族として重婚の罪で裁かれ、その後もふてぶてしく”公爵夫人”を自称し続けたエリザベス・チャドリーのハチャメチャな人生をご紹介しよう。


幼少期

エリザベスは1720年、デヴォンシャー州にて生まれた。彼女の父はチェルシー病院の副総督トーマス・チャドリー大佐、母はドセットシャー州チャルミントン生まれのハリエットである。小規模ながら名誉ある地主階級の娘として生まれたものの、南海泡沫事件11の影響で財産のほとんどを失い、さらに1726年に父が亡くなるという不幸に見舞われる。

こうして幼少期は田舎で恵まれない生活を余儀なくされたエリザベスだったが、彼女には一つ大きな特徴があった。とてつもない美少女だったのだ。15歳のころ天然痘にかかるも、幸いなことにその美貌は失われず12に成人する。この頃、のちにバース伯となる政治家のウィリアム・パルトニーに目を掛けられ、1740年にロンドンへと移住する。彼との関係はプラトニックなものではなく、どうやらその後何人もの貴族との浮名を流すことになるエリザベスの”コレクション”の最初の一人だったようだ。彼の助力もあり、1743年にオーガスタ王太子妃の侍女に任命される。エリザベスの宮廷デビューである。

最初の結婚

当時の宮廷はゴシップと恋愛沙汰が渦巻く魔境。そんな中でエリザベスは早速一人の貴族に見初められる。第6代ハミルトン公ジェームスである。彼は1743年、エリザベスにプロポーズする。だがタイミングが悪かった。彼はグランドツアー13の真っ最中であり、基本的にイングランドを離れていたのだ。ツアーの完遂まで待つようエリザベスに頼むものの、ライバルが現れてしまう。それが、当時陸軍中尉だった初代ブリストル伯の孫オーガスタス・ジョン・ハーヴィーである。

ウィンチェスター競馬場にて出会ったエリザベスとハーヴィーは激しく恋に落ちる。彼は当時所属していたコーンウォール号の軍務を休み、エリザベスに求婚する。しかし二人は金銭的に余裕がなく、彼女は侍女の地位を失う14わけにはいけなかった。そこで、1744年8月4日、レインストンの教区外礼拝堂にて、アミス牧師のもと夜中にひっそりと婚姻を結んだ。

出産と破局

数日後、ハーヴィーはコーンウォール号に戻って西インド諸島へと向かってしまい、イングランドに帰国したのは1746年のことだった。エリザベスは翌年夏に宮廷を休んでチェルシーに移り、秘密裏のもと男子を出産する。1747年11月2日に洗礼を受け、ヘンリー・オーガスタスと名付けられたその子は、残念ながら長くは生きられず、ほどなくして亡くなってしまった。

ハーヴィーがイングランドに戻った後から、エリザベスとの仲は急速に悪くなっていた。それはハーヴィーが海に繰り出していた期間のエリザベスの宮廷での振る舞いが原因かもしれない。エリザベスのトークは機知に富んでおり、社交界の花形として名を馳せ、同時に数多くの著名な廷臣15たちと浮名を繰り広げていた。要はめちゃくちゃ浮気していたのだ。結局、息子の出産と死亡後はエリザベスとハーヴィーの夫婦仲は完全に破綻してしまった。

記録改竄

以来エリザベスとハーヴィーの仲は完全に終わったものとなったのだが、1759年に転機が訪れる。ハーヴィーの兄ブリストル伯が病床にあり、彼には子供がいないためハーヴィーが伯爵位を継ぐ可能性が高くなったのだ。もしそうなればエリザベスは伯爵夫人となり、巨額の財産を得ることができる。

ところが秘密裏に婚姻を結んだことから、自分が伯爵夫人であるという証拠が乏しい。そこでエリザベスは考えた。なければ作ればいい。2月の初め、エリザベスはウィンチェスターに赴き、瀕死になっていたアミス牧師の枕元にてレインストン礼拝堂の婚姻記録簿の記録を改竄した。記録は叔父のジョン・メリルが管理することとなったという。

本命

こうしていつでも「私は伯爵夫人である」と名乗り出ることができる準備を進めていたエリザベスだが、これはあくまでもスペア。本命は別にあった。それが公爵夫人の座である。1750年ごろからエリザベスはキングストン公爵エヴリン・ピアポントと恋人関係にあったのだ。血筋もよく、広大な領地と莫大な収入を持つ彼は寛大で、エリザベスが数多の男性と浮気を繰り返しても彼女を愛し続けていた。

特に1760年6月4日のウェールズ公の誕生日を祝う舞踏会を開催したことで、二人の関係は広く知れ渡ることとなった。彼女の催すパーティーはロンドンで最も洗練されたファッショナブルなものであり、海外の各国の大使たちもしばしば訪れるほどだったという。

一度、キングストン公爵との仲が危うくなったことがある。それが1764年のことで、彼が浮気をしたのだ。エリザベスは当てつけのように1765年に一人ドーヴァー海峡を渡った。ベルリンではフリードリヒ二世の宮廷舞踏会でワイン二本を開けて酔っ払い、床に倒れそうになるという醜態を見せる16など、荒れた様子を見せている。結局、公爵側の懇願により、エリザベスはイングランドに戻り復縁することになった。

独身宣言と二度目の結婚

ハーヴィーとエリザベスの婚姻関係は本当に面倒くさいことになってしまった。どちらも別の恋人17と婚姻したかったのに、中途半端な婚姻状況が障壁になってしまったのだ。そこで、二人は共謀してある訴訟を起こす。それが、”ハーヴィーがエリザベスと結婚していると吹聴しているがそれは虚偽だ”というジャクティテーション訴訟18である。

結局、この試みはエリザベスにとっては19成功に終わり1769年2月11日、彼女は独身でありいかなる婚姻関係も締結されていないと判断が下された。これにより同年3月8日、エリザベスはついに特別許可のもと”公爵夫人”としてキングストン公爵との婚姻を結ぶことに成功したのである。

公爵の死と相続権

彼女のキングストン公爵との結婚は国王や政府高官から正式に祝福された。ただその夫婦生活は長く続かなかった。1773年9月23日にキングストン公爵が亡くなってしまったのだ。そして1770年に生前作成された遺言状にもとづき、エリザベスは彼の財産のすべてを相続すると定められていた。

ここで待ったをかけたのが公爵の甥のエヴリン・メドウズである。彼は公爵と死の直前に不和となってしまい、遺言では全く相続の見込みが立たなくなってしまっていた。だからこそ遺言をひっくり返すべく、最強のスキャンダルを法曹に持ち込んだ。つまりエリザベスはそもそもハーヴィーと結婚している状態で公爵と結婚した。彼女は”重婚”という重い罪を犯しており、こんな遺言は全部無効だ、というものだ。

エリザベスは当時ヨーロッパ各地を訪問中。だがこの知らせを受けてイングランドへと緊急帰国したという。弁護費用を稼ぐためにローマでピストルを使い、金や宝石を集めたというから驚きだ。

裁判での争い

1775年12月、エリザベスは1769年の判決を根拠として、訴追取り下げを求めたものの訴えは取り下げられた。裁判は貴族院ウェストミンスター・ホールにて1776年4月に始まった。かつての社交界の花形であるエリザベスの醜聞は当時相当興味を集めたようで、なんと4000もの人が詰めかけたという。

裁判は一週間程度続き、その過程で以下が証明された。

  • ハーヴィーとの結婚
  • 子供の誕生
  • 1759年の改竄記録

これによりエリザベスが重婚であるという有罪判決が、貴族院議員119人全員のもと全会一致で下された。

しかし、ハーヴィーとの婚約を行っていたことはある意味で彼女を救った。彼は裁判前年の1775年3月20日、兄の死去によりブリストル伯を受け継いでおり、エリザベスは公的には伯爵夫人となっていたのだ。これにより、彼女は焼印といった一生消えない刑罰20を免れた。

イングランド脱出

こうして罪人となってしまったエリザベスだが、そもそもの発端は遺産問題である。エヴリンはこの後自身を拘束し、遺産を手に入れるよう画策するだろう。身動きできないような処置も取るかもしれない。そう考えたエリザベスは即座に自宅で大勢の友人や支持者を招いて盛大な晩餐会を開いた。外面的には「まあなんかあったけど解放されましたわ」と油断しまくっていると見られるパーティーを催したわけだ。

これによりエヴリンを欺きつつ、その間にエリザベスは持てるだけの資産を持ってフランスへと逃亡を果たす。その日がまさにエリザベスの出国禁止令が発令された当日。本当にギリギリのタイミングであった。

その後

イングランドを離れた彼女は、その後もふてぶてしく”キングストン公爵夫人”を自称してヨーロッパ各地を渡り歩いた。実際に”公爵夫人”として扱われることも多かったらしく、特にローマでは教皇クレメンス十四世と、ロシアではエカチェリーナ二世と謁見する21機会まで設けられたという。

詐称であることが確定しているにもかかわらず、各地で”公爵夫人”としてもてなしを受けていたのは不思議だ。この辺りはイギリス貴族界でのし上がった実力の賜物といったところだろうか22

1788年8月26日、エリザベスはパリにて死去する。68歳であった。


以上が、”二重に高貴な被告”エリザベス・チャドリーの物語である。いかがだっただろうか。個人的には、彼女の異常なほどの悪運の強さに面白さを感じた。本コラムで紹介したエピソードだけでもこれだけあるのである。

  • 天然痘にかかるが、容姿に影響がなかったこと
  • 重婚の罪が確定するも、前年に伯爵夫人となっていたことで庶民の罰は受けなくて済んだこと
  • 出国禁止令が発令されるも、当日逃げおおせたこと
  • “公爵夫人”の自称が公になるも、他国では公爵夫人として扱われ続けたこと

さて、このエリザベスであるが、残念ながら後世の評価はあまり良くない。重婚の罪人なんだから当然といえば当然なのだが、それにしても辛辣な評価が多い。例えば1885年に発行された『英国人名辞典』では

彼女はきわめて粗野で、価値のない者たちに取り巻かれ、自分に甘くて気まぐれであり、その性格は完全に軽蔑されてもおかしくなかった

と、もうボロクソに言われている。そのあとに

“天性の寛大さ” があったために、完全には見放されなかった

と続くも、全然フォローになっていない。

ただし、これは時代背景も考えるべきだろう。彼女が生きた18世紀はいい意味でも悪い意味でもおおらかな時代だった。ところが亡くなった後の19世紀に倫理感がガラッと変わり、道徳、規範に厳格で禁欲的な時代が訪れたのだ。この価値観で考えると、確かにエリザベスはとてつもない悪女に見えることだろう。

また、現代のジェンダー論的立場で彼女を見ると、時代に翻弄された被害者、と見ることができるかもしれない(あまり詳しくないので浅い考察しかできないが)。

しかし、彼女の計算高いのか刹那的なのかよくわからない行動を追ってみると、案外全力で楽しく18世紀という時代を生き抜いてたんじゃないかな、という楽観的な推測もできる。

様々な見方ができるものの、これだけは確かだろう。エリザベス・チャドリーは、ハチャメチャな人生を送った


参考文献

注釈


  1. 1720年にイングランドで起きた、南海会社の株価暴騰と崩壊事件 

  2. 罹患すると「あばた」と呼ばれる痕跡が顔や体に一生残る可能性が高く、容姿を損なう原因となることが多かった 

  3. 数年間ヨーロッパを周遊する貴族の教育旅行 

  4. 未婚の女性であることが侍女の条件だった 

  5. 流石に不倫関係にあったわけではないようだが、当時の国王ジョージ二世も彼女を気にかけ、時計や農場を贈ったりしているほどである 

  6. よほど酷かったのか、フリードリヒ二世からザクセン選帝侯未亡人に宛てた手紙の中にも記されている 

  7. ハーヴィー側が結婚したかったのは元画家でモデルのメアリー・ネスビットだという 

  8. 「自分は誰々と結婚している」という主張は事実ではないと訴える裁判 

  9. ハーヴィーの独身は証明されず、結局彼は本命と結ばれず生涯を終えた 

  10. 重婚の刑罰は庶民と貴族で異なっており、庶民の場合は鞭打ちや焼印といった重い罰が下されていた 

  11. 特にエカチェリーナ二世の配慮には感動したようで、サンクトペテルブルグに広大な土地を購入したようだ 

  12. あるいは、彼女がイギリスから持ち出したキングストン公爵の莫大な遺産の賜物かもしれない 

カテゴリー: 歴史 | タグ: , , , | コメントする

北極圏での南国トロピカルフルーツづくり――アイスランドのバナナ生産

南国のトロピカルフルーツ、バナナ。あなたはこの果物を生産している国の中で、最も北側に位置している国はどこかご存じだろうか。広大な中国やアメリカだろうか? あるいはスペイン、イタリアといった、ヨーロッパの比較的温暖な国? 実は、縦に長い日本だったり? 残念ながらどれも不正解である。正解は、北極圏の国アイスランド。名前からして非常に寒そうで、実際非常に寒冷な国だが、実はかの国では半世紀以上もの間バナナを生産し続けており、過去には国内流通までしていた歴史があるという。いったいどのようにしてこの土地でトロピカルフルーツ生産を実現しているのだろうか? 本コラムでは、凍える大地アイスランドで行われる、”地の利”を活かしたバナナ生産についてをご紹介しよう。


火と氷の国

アイスランドはその名前から、”氷”属性のイメージが非常に強いと思う。実際、国土の12パーセントを氷河が占める「氷の国」である。しかし、その地理的特性を考えると、もう一つの属性が浮かび上がってくる。それが”火”だ。アイスランドは実は火山大国であり、国内には200を超える火山があり、豊かな火山環境を利用した地熱による暖房設備が充実している。そして、アイスランドではこの「火と氷」を地熱発電、水力発電という形でエネルギーに変換し、国内の電力需要をすべて賄ってきているのである23

100パーセント自然の力で生み出されるためか、アイスランドでは電力料金が非常に安い24。そのため、精錬に多大な電力が必要となるアルミニウムの一大拠点となっており、オーストラリアからわざわざ原材料であるボーキサイトが送られてくることもあるという。現地の電力料金で精錬するよりも、地球の裏側に送る輸送と安い電力料金で精錬する方がコストが抑えられるというのだから驚きだ。

そしてアイスランドは、この豊かな地熱暖房と安い電気料金を、農業にフル活用している。それが、温室による農作物栽培だ。

アイスランドでの温室農業の歴史

アイスランドにおける地熱を利用した農業の歴史は、19世紀以前までさかのぼる。当時は”温室”といった設備は設けず、地熱で暖められた土壌を利用することで、ジャガイモや穀物といった作物の栽培期間を延ばしていたという。とはいえ、厳しい寒さから完全に逃れられるわけもなく、数か月の延長に過ぎなかったらしい。転機が訪れたのは1924年、初めて地熱を利用した温室が建設されたのだ。これにより、天候や風、寒冷の遮断が可能となり、季節が限定されていた農作物の通年栽培が可能になるというブレイクスルーを達成する。

20世紀後半になるとガラス温室、自動灌水システムといった技術躍進を果たすようになる。これによりトマト、キュウリ、レタスといった作物の種類が急増し、収穫量・品質も安定するようになった。アイスランドにおける食料システムの一部に温室農業が組み込まれるようになったのである。

現在、18.6ヘクタールという広大な面積2526にまで成長した温室農業は、再生可能エネルギーを活かした持続可能事業として、アイスランドの政策・補助金・貿易制度と密接に結びついた戦略的産業へと発展している。完全な自給は難しいにしても、トマトは国内市場の約2/3、キュウリに至ってはほぼ100%国産と、特定品目に関しては高い自給率を達成しているのである。また、「地元産食品」に対する評価の高まりから、多くの消費者は多少高くても国産の農作物を購入する傾向にあるという。

少し固い話になってしまったが、以上がアイスランドでの温室農業のざっくりとした歴史である。こうした背景のもと、バナナも温室にて栽培されているというわけだ。次の章では、いつ頃バナナがアイスランドに導入され、生産にこぎつけたのかを紹介しよう。

アイスランドでのバナナ栽培

アイスランドにバナナが導入されたのは、なんと1939年のことである。この年の7月にフリン・エイリクスドッティルという女性がイギリスからバナナを持ち込んだことが、すべての始まりだった。彼女はレイキャビクにある温室園芸施設でバナナを育てはじめ、1941年には熟した最初のバナナを生み出すことに成功する。以後、バナナの試験栽培は本格化していく。

当時のアイスランドは先述した通り温室による農業のブレイクスルーを果たしたばかり。バナナ栽培にも期待が込められており、当時の教科書には「アイスランドは将来バナナ大国になるかもしれない」と書かれていたほどだ。実際、第二次世界大戦後には輸入果物の高価格化も相まり、アイスランド産のバナナが国内流通していたという。アイスランドのバナナは商業ラインに載っていた時代があったのだ。

ところが、1960年に果物の輸入関税が撤廃されると、国産バナナ市場は崩壊する。輸入バナナの圧倒的な安さに太刀打ちができなかったのだ。最初のバナナが1939年に導入され、1941年に熟したことからわかる通り、アイスランドの温室でバナナが成熟するのには1.5年~2年という歳月が必要となる。一方で中南米やアフリカといった主要なバナナ産地では、わずか数か月でバナナが完熟する。おまけに、北極圏という土地柄ゆえ、冬は極端に日照が少なく、人工照明に頼らざるを得ない。いくらアイスランドの電力量が圧倒的に安いといっても、アルミニウムと違って赤道直下の国々にアドバンテージは取れなかった。なぜならばかの国々でバナナを育てている光は太陽、つまりコストがゼロなのである。

こうして商品としてのアイスランド産バナナはたった10年ほどで幕を閉じた。現在はレイキールにあるアイスランド農業大学のオフィスにて、1942年にバナナ農家から寄贈されたものが研究用に栽培されているのみ27である。

都市伝説

さて、アイスランドでのバナナ栽培は長年にわたって研究が続けられているものの、市場への流通は失敗という形で終わっている。しかし、アイスランド国内外で、「アイスランドはヨーロッパ最大のバナナ生産国である」という奇妙なうわさがまことしやかに語られているという。

実際のところ、ヨーロッパ最大のバナナ生産国はスペインやフランスである28。ではなぜこういったうわさが広まっているかというと、イギリスBBCの番組「QI」29で取り上げた、「ヨーロッパ最大のバナナ産地がアイスランドである」というジョークが独り歩きした結果らしい。特に当事者であるはずのアイスランド国内でこのうわさが広まっているのは、半世紀前には実際に国内流通し、教科書の未来予測にも書かれていたことが原因のようだ。

ちなみに、現在も栽培を続けているアイスランド農業大学で作られたバナナは、政府資金で運営されていることから、販売は禁止されているとのこと。近年トレンドとなっているエモ消費30の観点でいうと、「二年の歳月をかけて作り上げられた北極圏のバナナ」なんて最高にウケそうな気がするだけに、少し残念に思うのは私だけだろうか。


以上が、商業的には失敗したものの、地の利を生かして今も生産を続けるアイスランドのバナナの物語である。いかがだっただろうか。個人的には、コスト競争で地球の裏側と争い、アルミニウム精錬では勝ち、バナナ生産では負けたという対比が非常に面白いなと感じた。

また、調べていて感じたのが、アイスランドにおける温室農業という形態に対して強いアイデンティティや誇りをもっていそうだということ。結びで紹介した都市伝説がアイスランド国内でも広がっている根底には、「北極圏でも農業はできる」という強いプライドがあるのかもしれない。実際、アイスランド農業大学の温室は4月にオープンデーを開催しているそうだが、その日には5000人もの来客があるのだという。

本コラムの締めとして、アイスランド農業大学の温室マネージャーが”The Reykjavík Grapevine”のインタビューで語った、温室農業に対する強い誇りを感じる印象的な一言を引用する。

ガラスの下で育てられるものなら何でも育てられる。

エリアス・オスカルソン


参考文献

注釈


  1. 水力発電が約70%、地熱発電が約30% 

  2. なんと日本の電力料金の1/3という安さである 

  3. 東京ドーム約4個分 

  4. 鑑賞植物等の栽培面積も含めた数値。野菜のみだと約9.7ヘクタール 

  5. 栽培されたバナナは年間およそ100房ほどで、すべて学内で消費されている 

  6. カナリア諸島、マルティニークといったアフリカ、中央アメリカ圏内にある海外領土での生産。生産拠点が海外圏であることから、「ヨーロッパ圏内ではアイスランドが最大の生産国だ」という主張もある 

  7. コメディクイズ番組 

  8. 商品やサービスが持つストーリー性を動機とする消費活動 

カテゴリー: 技術 | タグ: , , , | コメントする

「お菓子の家」の発掘!?――1963年ドイツの『ヘンゼルとグレーテルの真相』騒動

あなたは「グリム童話が実は残酷で恐ろしい」という噂を見聞きしたことがあるだろうか。ディズニーアニメや絵本では平和に描かれている童話たちが、実は残酷な描写や性的でドロドロとしたシーンにまみれている、というものだ。結論から言うと、これは一部事実で一部誤りといったところ。確かにグリム童話は古い言い伝えの編纂物であることから、現代の感覚では残酷と思える描写は確かにある。しかし、「性的でドロドロとしたシーン」という部分は誤りである。これは1998年に出版された『本当は恐ろしいグリム童話31というグリム童話の二次創作が大ヒットした影響で植え付けられたイメージで、こうした印象は日本独自のものといえるだろう。

日本で誤った認識を植え付ける結果となってしまった『本当は恐ろしいグリム童話』だが、本書が出版される35年前、グリム童話の本家本元であるドイツでも、「『ヘンゼルとグレーテル』には残酷な真実が隠されている」という本が出版され、大混乱を巻き起こしたことはご存じだろうか。本コラムでは、1963年ドイツで出版され物議をかもした書籍『ヘンゼルとグレーテルの真相』をご紹介しよう。


『ヘンゼルとグレーテル』あらすじ

早速本題に、といきたいところだが、「そもそも『ヘンゼルとグレーテル』ってどんな話だったっけ」という人も多いのではないだろうか。そこで、まずは『ヘンゼルとグレーテル』の簡単なあらすじを記そう。なお、今回のコラムにあまり関係がない描写は省略している。

第一章

あるところに木こりの夫婦がいた。夫婦の間にはヘンゼルという男の子と、グレーテルという女の子がおり、彼ら4人は貧しく暮らしていたが、国内で発生した大飢饉で食べるのにも困るような状況に陥ってしまった。

このままでは一家全員が飢え死にしてしまう。そう考えた母親はある日の夜、子供たちを森の中に置き去りにすることを父親に提案。渋る父親を押し切り、翌日実行することを決断する。

この会話を偶然聞いてしまったヘンゼルは、両親が寝静まったことを見計らい、白い小石をポケット一杯に隠しいれる。

翌日朝早くから森に連れ出されるヘンゼルとグレーテルだったが、ヘンゼルは道すがら小石を地面に落としていく。そして計画通り二人は森に置き去りにされてしまったのだが、月の光に照らされた小石を頼りに帰宅に成功する。

母親は、明日は森のより深くに連れ込んで、帰れないようにすることを計画する。一方でヘンゼルは同じように小石を拾おうとするが、ドアが施錠されてしまっていたために失敗してしまう。

翌朝再び森に連れ出されるヘンゼルとグレーテル。小石は持っていないヘンゼルだが、食料として渡されたパンを地面に落とすことで目印を残そうとする。

またも置き去りにされてしまった後、目印のパンをたどろうとしたが、鳥たちが食べてしまっており、帰れなくなってしまった。

第二章

森で遭難して3日後、白いきれいな鳥に導かれ、レープクーヘン32の壁、お菓子の屋根、透き通った砂糖の窓でできた家を見つける。

二人が家のお菓子を食べていると、中から年を取ったおばあさんが出てくる。二人を家に連れ込み優しく振舞う彼女だったが、その正体は二人を殺して食べてしまおうと考える悪い魔女であった。

翌朝、魔女は眠っているヘンゼルを小さな小屋に連れ込み監禁し、グレーテルを脅してこき使うようになる。

まずはヘンゼルを食べてしまおうと考えた魔女は、グレーテルにかまどの中へ入って火加減を見るように命じる。グレーテルは「やり方がわからない」と騙り、お手本を見せるようにかまどの中に首を突っ込んだ魔女の背中を突き飛ばし、そのまま魔女を焼き殺してしまう。

グレーテルはヘンゼルを助け出し、宝石などを手にして帰路に就く。カモの手助けによって川渡りをして森の中を進んでいくと、見覚えのある道へとたどり着く。

ついに我が家を見つけたヘンゼルとグレーテルが中に入ると、父親が待ち構えていた。いつの間にか母親は死んでおり、魔女の家から持ち帰った宝石で親子三人は仲良く過ごすことができたという。

1963年、ドイツでの騒動

以上が『ヘンゼルとグレーテル』の簡単なあらすじである。この童話の魅力は、なんといってもお菓子でできた家だろう。飢饉による子捨てや、魔女によるカニバリズムといった残酷でリアリティのある描写の中で、ファンタジーさが際立っている。こうしたギャップのためか、「『ヘンゼルとグレーテル』の詳細は知らないが、お菓子の家が出てくることは知っている」という人は多いように思う。

さて、この『ヘンゼルとグレーテル』だが、折しもヤーコプ・グリム33の没後100年目となる1963年に、とんでもない本が出版される。ユーモア作家、ハンス・トラクスラーが著した『ヘンゼルとグレーテルの真相』という本である。

この本では、アマチュア考古学者のゲオルク・オセックという人物がシュペッサートの森34にて、『ヘンゼルとグレーテル』の「魔女の家」を発掘し、さらにはこの童話に隠された歴史を解き明かしたと記されている。

なんと、ヘンゼルとグレーテルは17世紀半ばに実在した人物がモデルで、物語の元となる出来事が起こった当時、成人していたというのだ。彼らは、才能ある菓子職人である「魔女」が隠し持つレープクーヘンのレシピを得るために、彼女を殺害したのだという。

この本には、問題のレシピの複製や「魔女の家」の考古学的証拠写真、さらには化学分析の様子までもが掲載されていた。

出版後、ドイツでは東でも西でも35大騒動となった。1963年11月、西ドイツではタブロイド紙「アーベント新聞」が、東ドイツでは国営紙「ベルリナー新聞」が本書を取り上げ、瞬く間に全国ニュースとしてドイツ国内に広まった。

出版社には問い合わせが殺到。当然発掘者であるオセックにも、文化事務所から公演依頼が舞い込むなどの呼びかけがあった。しかし、彼がそれらに応じることはなかった。――ゲオルク・オセッグなどという男は存在しなかったからだ。すべては、トラクスラーの創造の産物だったのだ。

トラクスラーによるいたずら

本書の著者、ハンス・トラクスラーは皮肉屋で知られ、反権威主義的な雑誌「パルドン」にて文章やイラストのパロディーで世の中を風刺することを得意としていた。

1963年の初頭、C・W・ツェーラムの『神々、墓、学者』36を読み、考古学のロマンに影響を受けた彼は、このネタでパロディーを作ってやることを決意。ちょうどその年はヤーコプ・グリムの没後100周年であることから、最も有名なグリム童話の一話『ヘンゼルとグレーテル』を「発掘」しようと考える。

最初の原稿は数週間で出来上がり、その後ディティールを詰めるため、ジャンヌ・ダルクの裁判記録や、低地バイエルン地方の魔女裁判の記録などを参照。さらにはカッセルにあるグリム兄弟の博物館に赴き、館長であるデーネッケ博士にもお世話になりながら37、たくさんの資料を閲覧したという。

もちろんパロディーであることの匂わせも忘れてはいない。注釈・参照先は架空のものだらけだし、「発掘」した秘密のレープクーヘンのレシピはドクターオツカー38の料理本から拝借したものだ。「証拠写真」には息子や娘のおもちゃを使用したりもしている。トラクスラー自身が扮したオセックも、コロンボ刑事風の古いコート、皮の帽子、ニッケルの眼鏡、ちょび髭といったコミカルな姿で写真に写っている。

こうして約6週間にわたって作られたパロディー本だが、ドイツ国内ではあたかも「真実」のように許容されてしまった。どういうわけなのだろうか。次の章からは、本書の内容をかいつまんで紹介していこう。

ゲオルク・オセック

まずは本書の「探偵役」となるゲオルク・オセックの設定から。彼は1919年5月21日にプラハで生まれた。11歳の誕生日に祖父母からのプレゼントでグリム童話に興味を持ち、なんとその歳にして童話『おいしいおかゆ』39の再現検証を行ったという。ボヤ騒ぎを起こしただけで終わったわけだが、少年時代から知的探求心に溢れている様子がうかがえる。

そして1932年、オセックは中等教育機関のギムナジウムにて考古学者シュリーマン40の伝記と出会い、考古学に魅了されることになる。

その後教員となったオセックは、1945年1月に戦火を逃れるためバイエルン州アシャッフェンブルク周辺に生徒たちと疎開する。疎開先でお世話になっている農夫と会話したところ、なんとこの土地にあるシュペッサート森を彼らは代々「魔女の森」と呼んでおり、森の奥には「魔女の家」があるというのだ。おまけに、農夫の祖父は実際に「魔女の家」を見たことがあるという。

幼き頃のグリム童話への興味と考古学への憧れ。彼は「魔女の家」の発掘を夢見るが、当時はその直後に終戦となってしまったため、街に帰ることとなった。

転機が訪れたのは1962年の初めである。オセックはアシャッフェンブルクにあるギムナジウムへの転勤が決まったのだ。こうして彼は、かねてからの夢であった「魔女の家」の発掘に挑むようになる。

木こりの家跡地を発見

1962年5月10日、オセックがシュペッサートの森深くに立ち寄った際、既視感のある道を発見する。なんとその道は、グリム童話初版所刷本に描かれていた挿絵と不思議なほど一致しているのだ。この本はグリム兄弟が存命していた時期に出版されていることから、まさにこの道をモデルに、『ヘンゼルとグレーテル』の1シーンは作られたのだと彼は考えた。

翌日、この道を頼りにオセックは東に向かい、住居の跡地とみられる個所を発見する。そこにはフランクフルトとヴュルツブルクを結ぶ高速道路が敷かれていた。

この地に住居があった証拠は裁判記録に残されていた。ゲオルク・シャイトハウアーという人物が連邦高速道路管理局に対して訴訟を起こし敗訴、住居と土地を売却したというのだ。おそらくこのゲオルク氏こそ、『ヘンゼルとグレーテル』に出てくる木こりの家の最終所有者なのだろう。

ついにオセックは物語のスタート地点を発見した。次は二人が置き去りにされた地点を探すべきだろう。手掛かりは「白い小石」である。

驚きの事実と疑惑

オセックは近所に住んでいる8歳くらいの子供に協力を依頼し、木こりの家の跡地に連れてきた。そして彼に硬貨くらいの大きさの小石をズボンのポケット一杯になるまで持たせ、小石を見失わないような間隔で落としながら西の方角41に歩かせるという実験を行った。結果は失敗。物語のように焚火を炊けるような広場を見つけることができなかった。

しかし、試しにオセック自身が同じ方法で歩いてみたところ、不思議なことにそれらしい広場が見つかったのである。彼の魔法によるものだろうか? 単純な物理の問題である。子供の背だと小石を見失うまでの距離は短い。一方成人したオセックの身長ならば、その距離は長くなる。要は実験に協力した子供がたどり着いた地点よりも、さらに西側に歩けば該当の土地があったというだけの話である。

だけの話なのだが、問題は本編のある一点が否定されることになる。ヘンゼルが子供だとこの物語は成り立たないことが証明されてしまったのだ。つまり、当時ヘンゼルは成人していた、ということになる。

その後、1か月にわたる地道な調査42により6月10日に魔女の家の跡地とみられる遺跡を発見。5日間の発掘調査の結果、かまどの跡地にて、遺骨が見つかったのである!

そして、家の壁を発掘している最中、小さな長四角形の箱を発見する。その箱の中にはレープクーヘンの欠片とケーキ用の道具、手書きのレシピが入っていた。

一方、ヘンゼルが監禁させられたという小屋は、不思議なことに痕跡が見当たらない。また、玄関には無理やり破壊されたとみられる蝶番が発見された。

ヘンゼルは子供ではなかったし監禁もされていなかった。かまどには死体が放り込まれていた。壁の中に隠された箱があった。そして、玄関のカギは無理やり破壊させられていた―― どうも、きな臭い様子が漂ってきている。

犯罪の痕跡

その後、オセックは遺骨についてライデン大学人類学研究所のアルベルト・フェアモイレン教授に詳細調査を依頼する。調査結果は驚くべきものであった。なんと、遺骨の主は没時年齢が推定30歳前後の女性であり、さらに死因は焼死ではないという。

ここでも本編の描写と食い違いが生じているわけだ。もはやきな臭いどころではない。オセックははっきりと犯罪の痕跡を指摘する。これらが事実であるならば、ヘンゼルはグレーテルと共謀して妙齢の魔女の家に押し入り彼女を殺し、かまどで隠蔽を図ったのだ!

では、なぜ彼らは魔女を殺したのか。本編にある通り宝石の類を探していたのだろうか? そうではないだろう。壁の中に隠された箱、その中にあった手書きのレシピこそ、彼らが求めていたものに違いない。

「魔女」カタリーナ・シュラーデリン

オセックの推理が正しければ「魔女」は完全な被害者のように見える。彼女はどういった人物だったのだろうか。

オセックは再び本編の描写を参考にする。魔女のセリフは、ドイツ中部ヴェルニゲローデ特有のものだ。また、「魔女」と呼ばれているからには、魔女裁判などが行われたのではないだろうか。そう考えたオセックは1962年9月、ヴェルニゲローデの市公文書館に赴き、「カタリーナ・シュラーデリン」という女性の裁判記録を発見する。そして現地にて、彼女の生涯が判明したのである。

カタリーナ・シュラーデリンは1618年、ヴェルニゲローテにて誕生し、16歳のころから4年間、クヴェトリンブルクにある僧院の厨房で働いていたという。

その後南ドイツ各地を渡り歩き、彼女自慢のレープクーヘンを販売していたのだが、ある日ニュルンベルクにて店を出していたところ、公爵家お抱えのパン職人ハンス・メツラーに見初められ、求婚される。しかし彼の目的は彼女自身ではなくレープクーヘンのレシピであることを見抜いた彼女は、申し出を拒絶した。

その後もしつこく彼女に付きまとうハンスに嫌気がさし、1647年初頭にカタリーナは彼から逃げるようにシュペッサートの一軒家に移り住むことになる。

だが1647年7月15日、カタリーナは魔女裁判にかけられることになる。密告者はハンス・メツラー。その動機は彼女の所有物であるレシピを密告者特権で確保することだろう。

辛くもこの裁判では無罪を勝ち取った彼女であったが…… その末路は、オセックが推理した通りだ。彼女は哀れにも殺されてしまった。だが、そのレシピは遺されていた。彼女の誇りは守られたのだ。それだけは救いなのかもしれない。

さて、この事件をグリム兄弟が「改作」した背景だが、ヤーコプ33からヴィルヘルム43にあてた手紙(もちろん偽作44)によると、もとの物語はあまりにも残酷なので、魔女を年老いた女にして、猫やカラスを付け加えれば、意味のある教訓に満ちた効果が生まれるのでは、と書かれているという。オセックは訓育的な動機により改変したのではと推測している。

いたずらの告白とその後

以上が、1963年に出版された『ヘンゼルとグレーテルの真相』のかいつまんだ紹介である。本書は邦訳版も刊行されているので、興味がある方はぜひ読んでほしいところだ。明かされる真実が劇的で面白いのはもちろんだが、本コラムでは完全に省いた魔女裁判の様子などは非常に凝っていて読みごたえがある45

ただ、ここまで読んだ方なら大騒動が巻き起こった理由はよくわかるだろう。ちりばめられたパロディーの要素がかすむほどにストーリーが面白く、そしてリアリティがありすぎたのだ。正直、私自身本作がパロディーであるという事前情報がないまま読んでいたら、てっきり本当なのではと信じてしまいそうだった。

結局、1964年の3月にテレビでパロディーであると種明かしがされたものの、出版社には真相を問いただす手紙が何千通も届いた。回答のために3人の追加人員が投入されるほどだった。憤慨した一人の読者が、トラクスラーを詐欺罪で告発する事態にまで発展したという46

『ヘンゼルとグレーテルの真相』は、長年にわたり何度も再販され、1987年には映画化も実現した47。トラクスラーのもとには、現在に至っても問い合わせが来ているようだ。本作は、現代では当時の知的流行を模倣した作品として高く評価される一方で、この物語を真実としてとらえてしまう人がいまだに生み出されてもいる。また、本作に触発され、似たような手法で町おこしを行う自治体48も出てきているという。


以上が、明確なパロディーだったはずが、面白すぎたがゆえに事実として受容されてしまった『ヘンゼルとグレーテルの真相』の物語である。いかがだっただろうか、個人的にはやはり日本での『本当は恐ろしいグリム童話』の影響と比べた時、両者ともに「面白すぎた」ことが受容の原因となってしまったところが興味深いと思う。また、二次創作文芸であるがゆえに『本当は恐ろしい~』は元の文芸イメージを汚したと批判にさらされることが多い一方、『~の真相』は考古学研究のパロディーであるがゆえに知的であると評価されていることが多い。表現手法の違いによって後の評価が異なる点にも面白さを感じる。

面白さ、わかりやすさは時に真実を凌駕してしまう。特に「隠された真実」や「謎を解き明かす発見」などを知ったとき、多くの人は知的興奮を覚える。だからこそ一歩引いて、疑う目を持つことが大切なのだろう。そして騙されたと気づいたとき、その巧妙さをあえて楽しむという余裕も持ちたいものだ。

本コラムの締めとして、印象的だった本書の評を引用する。

これまでに学問への盲目的な信頼を、これほど面白く、かつ洗練されたしかたで虚仮にしたものがあっただろうか。

シュトゥッガルト・ニュース、1964年4月4日


参考文献

注釈


  1. 桐生操『本当は恐ろしいグリム童話』(KKベストセラーズ、1998年)。シリーズ累計250万部を突破し、「グリム童話=ドロドロで残酷」という日本独自のイメージを決定づけた 

  2. ドイツの伝統的な焼き菓子。ハチミツ、ナッツ、スパイスをふんだんに使ったクッキー 

  3. グリム童話の編者の一人。1863年没 

  4. バイエルン州とヘッセン州の間に位置する実在する森 

  5. 当時、ドイツは資本主義の西ドイツと社会主義の東ドイツに分かれていた 

  6. 考古学の発見と歴史を“ロマンと学問”で描き出した世界的ベストセラーの考古学啓蒙書 

  7. デーネッケ博士は意図を知らされていなかったため、本書について当初好意的に答えていたが、最終的にはボロクソに非難することになる。トラクストラーとはのちに和解 

  8. ドイツの大手食品企業 

  9. 不思議な老婆からもらった魔法の鍋から出てくるおかゆが溢れかえり、町中がおかゆまみれになる童話 

  10. ドイツの考古学者。ギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイアの遺跡を発掘したと主張したことで有名 

  11. 『ヘンゼルとグレーテル』内部の描写からオセックが推理した方角 

  12. 本編で描写されている帰路の川や、挿絵の様子を参考にしたという 

  13. グリム童話の編者のもう一人 

  14. 長くなってしまったので念のために補足すると、紹介している本作はパロディー本である 

  15. トラクスラーとしても会心の出来だったらしいので、あえて紹介しなかった 

  16. 幸い告訴はされなかった 

  17. トラクスラーからの評価はだいぶ悪い 

  18. 「白雪姫の街」ロール・アム・マイン。この街の観光戦略は機会があったら別のコラムにまとめようと思う 

カテゴリー: 文学 | タグ: , , , | コメントする

19世紀末アメリカが熱狂した列車衝突”ショー”――恐慌が生んだ狂気のビジネス

列車と列車の正面衝突。あまりにも破壊的で、恐ろしい事故である。実際に発生するとなると、とてつもない数の人々が犠牲となり、思わず目をそむけたくなるような凄惨な現場が思い浮かばれるだろう。ましてや衝突の瞬間など、好き好んで見たいと思う人などどれだけいることか。だが、列車の中には誰もいない、安全性が担保された「ショー」だとしたら……? 「それならちょっと見てみたい」と思ってしまった人は、残念ながら生まれてくるのが100年ほど遅かったようだ。本コラムでは、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカで流行した、蒸気機関車同士を正面衝突させる、前代未聞のショーをご紹介しよう。


怪しいセールスマン

1893年2月20日、フィラデルフィア・アンド・リーディング鉄道破産。当時アメリカ東部最大級を誇っていた鉄道帝国の崩壊に始まるアメリカ恐慌は、深刻なダメージを鉄道業界に与えた49。破産を免れた各鉄道会社も、立て直しは必須。何とかして、自社の鉄道を乗客に使ってもらわねば……

そんな状況の中、一人のセールスマンが、鉄道会社に奇妙な提案をしているという。男の名前はA.L.ストリーター。元鉄道マン50の鉄道機器販売員だという彼が提案している内容は「宣伝活動として、貴社の保有する機関車を正面衝突させてみませんか」というものだった。

機関車同士の正面衝突。確かにインパクトは凄そうだ。だが、それがどれだけ宣伝になるのだろう?そんな前例のない無謀な提案に、二の足を踏む鉄道会社たちであったが、ついにクリーブランド・カントン・アンド・サザン鉄道が興味を示す。車庫に転がっている、錆びた旧型の車両をぶつけるだけで利益が出るなら安いものだ。

最初の列車衝突ショー

こうしてストリーターと鉄道会社がタッグを組んで企画した史上初の列車衝突ショーは、1895年7月20日にカントンで実施されることが決まった。ストリーターはこのショーを「アメリカで最も素晴らしいショーだ!」と宣伝し、一気にショーマンとしての立場を確立していった。

衝突させる機関車はそのままだと地味すぎる。無骨な黒い旧型車両は、赤、白、青のペンキで鮮やかに彩られた。また、列車の衝突を、現実世界で発生している対立構造になぞらえてみるのはどうだろうか。そう、あの恐慌で浮き彫りになった二つの貿易が適任だ。こうして列車は自由貿易保護貿易と名付けられ、当時の経済論争を煽るような演出がされた。

ストリーターはこのショーの観客料を75セント、会場までの運賃を15セントに設定した。来場見込みは2万人。単純に考えたら2万ドルの売り上げだ。だがショーの当日、目ざとい観客が抜け穴を発見してしまう。別に会場に入らなくても、近くの森の木に登ったら衝突は見られるということに。こうして数千人という観客が会場近くの見晴らしの良い無料の高台をうろつき始め、馬鹿正直に75セントを払った観客はわずか200人ほどだったという。

そう。ストリーターは観客を全くコントロールできていなかった。だからこそ開始直前、会場のボルテージが上がってきたタイミングで観客の暴走を許してしまう。こんな歴史的なイベント、最前列で見たほうがいいに決まっている。なんと、テンションの上がった観客たちが安全のため設置されたフェンスを乗り越え、衝突予定地点に群がってきてしまったのだ!

もはやこうなってしまったら目の前にいるのは観客ではない、単なる暴徒だ。こんな中で列車を衝突させたら、何人の死傷者が出るだろうか。ストリーターはやむなく決断する。イベントは中止だ――

こうして、最初の列車衝突ショーは、興行としては大失敗に終わってしまった。

列車衝突ショー・リベンジ

興行として大失敗に終わってしまった最初の列車衝突ショーだが、成功していたら莫大な儲けが発生したのではという金のにおいを興行師たちは嗅ぎとったのかもしれない。翌年1896年には複数の列車衝突ショーが企画・実行された。

その中で初めて成功した事例が、1896年5月30日、ストリーターによるオハイオ州のバックアイパークで行われたショーだったのは、発案者の面目躍如といったところだろうか。

彼は今回コロンバス・ホッキング・アンド・トレド鉄道と組み、機関車A.L.ストリーターW.H.フィッシャー51の衝突劇を企画した。

前回は入場料を払いたくなくて、抜け穴を探して予期せぬ場所に入り込む輩が出てきてしまったのだ。だったら抜け穴を探す労力を無駄にしてやればよい。なんと、今回は入場料を無料としたのだ。代わりに、現場を往復する特別観光列車を用意し、この乗車券で利益を確保する。バックアイパークでの集金システムは、前年の失敗を反映したものだった。

演出面でもストリーターはひと工夫を加えた。機関士の格好をしたダミー人形を、機関室に配置したのである。これにより、衝突までの緊迫感・迫力が一層高まるようになった。

そして、25,000人の観客が固唾を飲んで見守る中、時速約65キロメートルで機関車と機関車はぶつかり合い――、衝突!激しい音とともに、破片が四方八方に飛び散り、観客たちは大歓声を上げた。

興行は大成功だ!このショーは、「これまでで最もリアルで高価なスペクタクル」と全国ニュースにもなった。

こうしてリベンジに成功したショーに続くようにして、列車衝突ショーはアメリカ全土で開催されるようになっていった。そしてこの時、テキサスの草原上では史上最大、そして最も悪名高い結果を残した衝突ショーの計画が、着々と進められていた――

1日限りの街

その衝突ショーを企画したのは、W.J.クラッシュ。彼はミズーリ・カンザス・テキサス鉄道、「ケイティ鉄道」で親しまれる地元鉄道会社の客室係である。クラッシュは会社に提案する。わが社は現在恐慌後の財政立て直しが急務である。今話題の列車衝突ショーを行うのはどうだろうか、集客の見込みは2万人だ、と。折しも鉄道網拡張に伴う新型列車の導入により、旧型車両を持て余していたケイティ鉄道は、この提案を承諾したのである。

ショーの会場はテキサス州ウェイコ北部に決定した。ここでクラッシュは、とてつもないプランを繰り広げる。それはなんと、たった一日開催されるショーのために仮設の「街」を作り上げてしまうという、きわめて壮大な計画だった。街の名前は、彼にちなんで「クラッシュ」と名付けられた。

1896年の夏、テキサスの街中で「20,000ドルの衝突」と銘打った列車衝突ショーを宣伝するチラシが配布されていた。ショーの会場は「クラッシュ」という聞きなれない街だが、なんと当時アメリカ最大の面積を誇るテキサス州52のどこからでも、ケイティ鉄道を使えばたったの2ドルで連れて行ってくれるという。おまけに入場料は無料である。

ショーの準備

こうしたマーケティングは話題を呼んだようで、テキサス州の多くの新聞が連日クラッシュでの準備の様子を連日報道した。州外からの報道もあったという。さらにスポンサーとして、P.T.バーナム53のサーカス団やオリエントホテルなどの名前が連なっていた。

メディアの注目の中、ショーに向けた準備は着々と進められていく。まずは主役となる2台の機関車だ。これにはケイティ鉄道が保有する旧型車両、ボールドウィン社製999号車と1001号車が選ばれた。もちろん、もともと漆黒だった車体は、999号車が鮮やかな緑の車体と赤い縁取り、1001号車が鮮やかな赤色に緑の縁取りで彩られている。

続いてクラッシュの街並みの整備。さすがに1日限りの街に本格的な建物が建設されたわけではないようで、スポンサーのバーナムから借り受けた巨大テントを中心とした施設がメインとなったようだ。とはいえ観客相手のレストランをメインとして、レモネードスタンド、カーニバルゲーム、サイドショーなど、観客が楽しめる施設を着々と整備している。施設の中でユニークなものとして、木造の牢獄があった。これはストリーターの最初のショーで発生した暴徒化した観客を想定してのものなのかもしれない54

安全確認

さて、これだけ順調に進めるショーの計画だからこそ、気を付けなければいけないことがある。それは、安全性の担保である。

また、それ以外の点も抜かりがなかった55。対象の車両は旧型とはいえ、万一のことが発生しないよう万全の整備を進めていた。後方の車両が突然あらぬ方向に吹っ飛ばないよう、安全チェーンを装備させて接合部を強固させていたくらいだ。

さて、機関車衝突において何より恐れなければいけないのはボイラー室の爆発だ。ボイラー内で溜まった圧力が爆発して加速した破片が観客席に飛べば、致命的な被害をもたらしかねない。だからこそクラッシュはケイティ鉄道の技術者とともに試験を実施し、技術者たちの所感を求めた。彼らによると高速の衝突でも爆発する可能性は低いと判断した。ボイラー室爆発の危険性を訴えた技術者もいたが、彼の意見は却下されてしまった。

技術者たちの判断は正しかったのだろうか。ついに、ショーは当日を迎えることとなる。

テキサス州クラッシュの列車衝突「事故」

テキサス州内外で注目を集めた列車衝突ショーだが、おそらくケイティ鉄道の想定をはるかに超える反響があったようだ。驚くべきことに1896年9月15日当日にクラッシュの街に集まった人数は約4万人56。クラッシュが自社に吹かした倍である。観客の中にはニューヨークからテキサスへと参戦したものや、乗り放題の切符を握りしめて、列車の屋根の上にへばりついて参戦したものがいる始末だ。

午後5時過ぎ、衝突予定の二両の車両はまず衝突予定ポイントに集められ、記念撮影が行われた。その後、線路の両端となるスタート地点まで移動させられる。運命の時は近づいている。線路の中央に、白馬に載ったクラッシュが現れた。目立つように白い帽子を手で掲げている。

そして、彼は鋭く帽子を振り下ろした。

二両の機関車がスタートする。徐々に加速していく車両に乗り込んでいる機関士と乗務員は、事前に調整された設定まで蒸気を解放したことを認めると、一人残らず列車から飛び降りた。そして二両の機関車は時速約70キロメートルまで加速し……、衝突した!

とその直後、機関車からとてつもない破壊音が発生する。危険性を訴えた技術者は正しかった。ボイラー室が爆発したのだ!機関車は曲がった鋼鉄と砕けた木材の塊へと砕け散り、周囲へと吹き飛んでいく。飛んで行った破片の中には観客席まで達し、彼らを傷つけてしまったものまであった。巻き込まれた不幸な観客のうち、2名が死亡、最低でも6名が重傷を負うという大惨事が発生。衝突の瞬間をカメラに収めていた写真家のジャー・「ジョー」・ディーンは、飛んできたボルトで片目を失ったという。

こうして、安全であったはずの列車衝突「ショー」は、死者を伴う凄惨な列車衝突「事故」として幕を下ろしたのである。

事故の後

事故の後、クラッシュは即座に解雇された。またケイティ鉄道は被害者遺族からの訴訟問題を、現金と生涯鉄道パスを用いて迅速に解決した。先に挙げた写真家は、1896年に1万ドル(2025年では37万ドルに相当)の賠償金を受け取った。

ところが、である。凄惨な事故となってしまったにもかかわらず、観客たちの満足度は非常に高いものだった。爆発発生直後の混乱の中、観客たちは事故現場に押し寄せ、手をやけどしながらも「記念品」として残骸を持ち去っていくものが多発したぐらいである。どうも、被害にあわなかった者たちにとっては、本件はショーとして十分機能していたらしい。

この事故により、ケイティ鉄道は国際的に認知され、注目を集めたことで大きな利益を得たという。また、結果的に会社に貢献することになったクラッシュはケイティ鉄道に再雇用され57、その後は引退するまでケイティ鉄道一筋で働いたという。

その後と衰退

こうしたケイティ鉄道の利益を受けてか、その後約40年にわたって、列車衝突ショーはアメリカ全土で開催されるようになる。

このムーブメントを象徴する人物がJ.S.コノリー、通称「ヘッドオン・ジョー」である。クラッシュでの事故の前の週である1896年9月9日に列車衝突ショーの興行師としてのキャリアをスタート58した彼は、アメリカ全土で機関車を衝突させ続け、生涯で破壊した列車の数はなんと146両。毎年平均4両というとてつもないペースである。これはギネスブックにも載っており、おそらく今後破られることはない大記録だろう59

こうして恐慌から始まった列車衝突ショーだが、終焉をもたらしたのもまた恐慌であった。1929年のニューヨーク・ウォール街で発生した株価大暴落を皮切りに発生した世界恐慌の中、巨大な機関車同士を衝突させるショーの開催は無駄遣いだとみなされ、人気が停滞し始める。ボストンからロサンゼルス、タンパからソルトレイクシティまで全国で列車を破壊し続けたコノリーも、1932年8月27日のフーバールーズベルトとの衝突劇60を最後に、活動を終了させている。

最後に記録されている列車衝突ショーは1935年6月30日に行われたが、興行的には失敗に終わってしまったという。


以上が、恐慌に始まり恐慌に終わった狂気の興行「列車衝突ショー」の物語である。いかがだっただろうか、個人的には良い意味でも悪い意味でも安全管理が雑だった時代だからこそ、こういったとてつもないスケールの娯楽は成立していたのかと思う。クラッシュでの事故が顕著だが、安全性について懸念点があろうとも、開催を強行してしまう(そして重大事故が発生する)というのは、現代ではとても考えられない話だ。

最後に、列車衝突ショー衰退後のアメリカで流行し、現在も開催され続けている自動車の破壊エンタメデモリッション・ダービーについて、軽く紹介したいと思う。

デモリッション・ダービーは前述のとおり自動車を用いた破壊エンタメの一つで、複数台の自動車をドライバーたちがフィールドの中で意図的にぶつけ合い、最後まで稼働している車両のドライバーを競う、というものである。1946年にD.バジルがカリフォルニア州にて開催した、4人のドライバーによる「フルコンタクト」レースに端を発するというこのレースは、現在に至るまでアメリカで人気の破壊エンタメとなっている61

さて、こうしたデモリッション・ダービーだが、実は列車破壊ショーの影響を受けていた……、という記録はない。そもそも列車破壊ショーの最後の開催が1935年であるのに対し、デモリッション・ダービーの最初期の開催が1946年である。時間が11年も空いており、直接的な影響を見出すのは難しいだろう62

しかし、こうした大規模な破壊エンタメを支持するファンの心理というものは、やはり根っこが同じものなのではないかと思う。破壊への欲望は時代を超えて人間の根源的な欲求であり、それを安全な形で表現する手段を求め続けているのだろう。本コラムの締めとして、列車破壊ショーの興行師J.S.コノリーと、「フルコンタクト」レースの主催者D.バジルの息子B.バジルの言葉を引用したいと思う。

私は、普通の人のどこかに、物を壊したいという抑圧された欲求が潜んでいると信じていた

――J.S.コノリー

ファンは、破壊と混乱に惹かれている

――B.バジル


参考文献

注釈


  1. 当時、国内の鉄道会社の1/4が破産した 

  2. シカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道で車掌を務めた経験があるという 

  3. コロンバス・ホッキング・アンド・トレド鉄道の役員 

  4. 現在最大の州であるアラスカ州は1959年に加盟 

  5. 「ショービジネスの父」と呼ばれる人物。映画『グレイテスト・ショーマン』主人公のモデルとして有名 

  6. 合わせて、治安維持のために200人もの巡査を雇ったという 

  7. そもそも街を仮設するというアイデア自体、使い込まれた本線の線路ではなく、新規で敷設した支線で衝突ショーを行うという安全意識がベースになっているようにも思える 

  8. たった一日だけだが、クラッシュはテキサス州で2番目に大きな街となった 

  9. さらにボーナスも与えられたという噂さえあった 

  10. アイオワ州デモインで開催されたステートフェアでの興行 

  11. 破られてほしくもない 

  12. 奇しくも、アイオワ州デモインで開催されたステートフェアでの興行であった 

  13. 現在では競技化・技術革新により、メジャー大会の開催や選手のプロ化などの発展を遂げている 

  14. 1930年代にはフォードT型を用いた自動車の衝突イベントが行われていたという説もあるが、有力なソースは見つからなかった 

カテゴリー: 技術 | タグ: , , | コメントする

「宴会ギャグ」から「伝統」へ――偽の布告『万歳三唱令』の数奇な運命

「万歳三唱に作法がある」――そう聞いて、あなたは信じるだろうか?1990年代末、この問いに国立国会図書館が翻弄された。『万歳三唱令』と呼ばれる明治初期の布告文書が各地に出回り、自治体から問い合わせが殺到したのだ。トイレットペーパー騒動や豊川信用金庫事件63。根拠のない噂が社会を動かす例は枚挙にいとまがないが、この『万歳三唱令』には他とは違う特徴があった。それは、知的センスとユーモアに満ちた「愉快な創作」として生まれたという点だ。では、なぜこの創作は「怪文書」として世間を混乱させるに至ったのか?国立国会図書館による注意喚起、創作者の発覚、そして創作秘話――。本コラムでは、この奇妙な文書の数奇な運命を追っていく。


世紀末の奇妙な報道

アンゴルモアの大王はやってこなかった。でも来月にはコンピュータの暴走で世界が崩壊してしまうかも…… そんな不穏な空気が漂っていた、かもしれない1999年12月11日、共同通信から奇妙な報道が出された。それは「万歳三唱の作法を騙る偽の『太政官布告』64が出回っている」というものだ。出回っている布告は『万歳三唱令』だという。同文書は「施行明治十二年四月一日 太政官布告第百六十八号」として万歳三唱の作法が細かく記載されている。該当する布告は存在せず、形式も当時の法令とやや食い違いがあるものの、御名御璽65が記載されているなど巧妙に作られている。正直、一般人には区別ができない出来だ。同文書の真偽について、1998年ごろから北海道から九州まで、全国の自治体から国立国会図書館への問い合わせが相次いでいる状況で、同図書館の担当者は「『不幸の手紙』のように広がっているのでは」「だれが何のために文書を作ったのか」と困惑しながらも、信じないよう呼びかけを行っている。

この偽の太政官布告『万歳三唱令』は、心構えとして「音頭をとるものは気力充実、態度厳正を心がけること」、「その心を一つにして心高らかに唱和すること」をうたい、続く『細部実施要領』として、以下のように手順を細かく解説している。

  1. 基本姿勢は直立不動で、両手指をまっすぐ下方に伸ばし体側にしっかりつける。
  2. 万歳発声とともに右足を半歩踏み出し、同時に両腕を垂直に高々と上げる。この際、両手指がまっすぐに伸び、かつ両手を正しく内側に向けておくことが肝要。
  3. 発声終了と同時に素早く直立不動の姿勢に戻る。
  4. この一連の動作を節度を保ち気迫を込めて三回繰り返す

万歳といえば足は動かさず、手を前向きにして上げるような動作を通常は考えるだろう。右足を前に出したり、手を内向きに上げるなど、ずいぶんと奇妙なポーズを指示しているではないか。試しにやってみてほしい。なかなか間抜けな姿勢である。

万歳作法の受容

そもそも、バンザイは「お祝い」の際に用いられるほかに、「お手上げ・降参」のポーズとしても用いられる。それを巧みに区別し形式化する内容が、「マニュアル人間」と揶揄されることもある日本人の心をくすぐるのだろうか。当時、『万歳三唱令』は美術館や宿泊施設など各所で見られたようで、鹿児島県ではとある県議がすっかり信じ込んでしまい、鹿児島市の大学合同同窓会でこの万歳作法を披露し、列席したメンバー60人にも唱和をお願いしてしまう、なんてこともあったようだ。

「右足を前に出す」という動作はともかく、「内向きに手を挙げる」ことで「お手上げ・降参」型バンザイと区別ができる、ということがよほど説得力を持ったのだろう。その後さまざまな場面で、『万歳三唱令』の手のひら内向き万歳こそ「正式な作法である」、「伝統にのっとっている」と、現在にいたるまでたびたび話題に上がっている66。皮肉なことに、偽の布告が「伝統」として受容されているのだ。また、2017年衆院選では、約半数が手のひらを内向きにして万歳をしているようで、『万歳三唱令』の影響がうかがえる。「うそから出たまこと」ということわざがあるが、まさしくこのことを言うのだろう。

創作者の告白

さて、そんなある種新しい文化を創造しつつあるといっても過言ではない『万歳三唱令』だが、2017年に新たな展開を迎える。なんと熊本日日新聞社に、「『万歳三唱令』を創作したのは我々だ」と告白する手紙が届けられたのだ。手紙の差出人は「正萬会議事務局」。60代~70代の公務員らのグループで、長く熊本県内に住んでいるという。

『万歳三唱令』誕生のきっかけは1985年ごろ。職場のゴルフ定例コンペの宴席で、誰かがふらふらと、酔いに任せて珍妙な格好の万歳を行ったことだという。それを見た「事務局」の中心人物Aが真似て、盛り上がりを受けて「右足を出す」動作を付け加えるなどして動作を確立。鉄板ネタの一発芸として、宴会等の終りには必ず実施するようになっていった。この一発芸には不思議な楽しさがあるのか、万歳をやるため、見るためだけに宴会に参加するような人も来るようになったという。ゴルフもせずにである。

このころの「万歳三唱」は単なる宴席の一発芸。なぜ、ここから精巧な太政官布告として文書化されるに至ったのだろうか。

『万歳三唱令』の創作

きっかけは1989年ごろ、Aが参加していた研修があまりにも暇だったことだという。暇な時はどうしても、どうでもいいことを思考してしまいがち。ちょうど転勤となり、ゴルフコンペの仲間たちとも疎遠になり「万歳三唱」を披露する機会がなくなっていたこともあって、あのネタを正当化するような文書を作ってしまおう、と思い立ったとのこと。どうせなら古いほうがいい。そうだ、『廃刀令』、『断髪令』と並ぶ『明治三大布告』の一つ、太政官布告『万歳三唱令』というのはどうだ――67

折しも1989年ごろ、Aは新たな仲間たちと知り合いになり、つるむようになった。彼らチームは「正しい万歳三唱を普及する国民会議」略して「正萬会議」事務局として立ち上がり、Aが初代事務局長に就任する。

『万歳三唱令』作成にあたって、まずは発令日だ。明治10年の西南戦争終結というめでたい出来事の後、ということで明治12年4月1日とした68。次に体裁。メンバーは東京出張の際に国立国会図書館を訪ねて実際の太政官布告を参照する。実物を見たところ、布告は「条」ではなく「條」という漢字を使用していたことがわかり、『万歳三唱令』にも反映することにした。

こうして構想を練り、体裁を整えた『万歳三唱令』は以下のとおりとなった。

原文:

萬歳三唱令

別紙ノ通相定来明治十二年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

右奉 勅旨布告候事

施行 明治十二年四月一日太政官布告第百六十八号

第一條 萬歳三唱ハ大日本帝國及ヒ帝國臣民ノ天壤無窮ノ發展ヲ祈念シ發聲スルモノナリ

第二條 發聲ニ當リ音頭ヲ爲ス者氣力充實態度嚴正ヲ心掛クルヘシ亦唱和スル者全員其心ヲ一ニシテ聲高ラカニ唱和スルモノトス

第三條 唱和要領細部ニ附テハ別ニ之ヲ定ム

朕萬歳三唱ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

此布告ハ明治十二年四月一日ヨリ施行スヘキコトヲ命ス

御名御璽

萬歳三唱ノ細部實施要領

一 萬歳三唱ノ基本姿勢ハ之直立不動ナリ而シテ兩手指ヲ真直下方ニ伸ハシ身体兩側面ニ完全ニ附著セシメルモノトス

二 萬歳ノ發聲ト共ニ右足ヲ半歩踏出シ同時ニ兩腕ヲ垂直ニ高々ト擧クルヘシ此際兩手指カ真直ニ伸ヒ且兩掌過チ無ク内側ニ向ク事肝要ナリ

三 萬歳ノ發聲終了ト同時ニ素早ク直立不動ノ姿勢ニ戻ルヘシ

四 以上ノ動作ヲ兩三度繰返シテ行フヘシ何レノ動作ヲ爲スニモ節度持テ氣迫ヲ込メテ行フ事肝要ナリ

要旨:

本文

別紙のとおり明治12年4月1日よりこれを施行する。

右、勅旨を奉じ、布告する。

第一条:発声は、大日本帝国と帝国臣民の永遠の発展を祈って行うこと。

第二条:音頭を取る者は、気力充実・態度厳正を心掛けること。唱和の際には、全員心を一つにして声高らかに行うこと。

第三条:細部については別に定める。(実施要領を参照)

実施要領

1.万歳三唱の基本姿勢は直立不動である。両手は指をまっすぐ下方に伸ばし体の側面にしっかり付ける。

2.万歳の発声とともに右足を半歩踏み出し、同時に両腕を垂直に高々と挙げる。その際、両手の指をまっすぐに伸ばし両掌を内側に向けておく。

3.万歳の発声終了と同時に素早く元の直立不動の姿勢に戻す。

4.以上の動作を三度繰り返して行う。いずれの動作も節度を持ち、かつ気迫を込めて行うことが肝要である。

『万歳三唱令』の配布と普及・そして封印へ

出来上がった『万歳三唱令』を片手に、正萬会議のメンバーは「万歳三唱」を宴席で実演するようになる。この時、作成した『万歳三唱令』のコピーを配布していたという。1989年頃から1990年代にかけて、熊本市、久留米市、鹿児島市など、九州各地の宴席で実演し、配布を行っていたそう。もちろん、「酒席以外では絶対にやってはいけない」とくぎを刺すことも忘れなかったそうだ。しかし、文書が人づてにコピーを繰り返される過程で、いつしか「宴会ギャグの資料」というメタデータは揮発していったようだ。九州各地で配布された文書は、出張者や転勤者を通じて、全国に広がっていったのだろう。

そして1999年、冒頭で紹介した共同通信による報道を皮切りに、地元「熊日新聞」や全国紙などでも報道されたことが転機となった。皮肉にも『万歳三唱令』作成にあたってお世話になった国立国会図書館をはじめとする関係機関各所に迷惑をかけたという反省、そして自分たちの「愉快な創作」が「不幸の手紙」のような怪文書の扱いで報じられていたことへのショック。正萬会議の活動停止および文書の封印を決断したという。


以上が、宴席の一発芸から始まり、混乱を生みつつもなぜか新たな文化を創造しつつある文書『万歳三唱令』の物語である。いかがだっただろうか。個人的には、文書作成の過程が非常に知的な取り組みになっていることが非常に面白く感じた。最後にまとめとして、以下二点について考えてみたい。

  • 揮発したメタデータ
  • 偶然一致した二つの時代背景

揮発したメタデータ

文書がもっていたメタデータは、「宴会ギャグ『万歳三唱』を規定する文書」というものである。この情報からわかることは、文書が補強したい主題は実のところ、「宴会ギャグ」そのものであって、「万歳三唱」ではないということだ。つまり宴会で受けたジェスチャーが「エイエイオー」なら「曳々応令」になっていただろうし、「ありがとうございました」なら「感謝令」になっていただろうと容易に想像できる。「万歳三唱」が受けたのは、たまたまに過ぎないのだ。しかしこのメタデータが揮発したことによって、文書の主題が「万歳三唱」ひいては「万歳の作法」へとすり替わってしまった。

偶然一致した二つの時代背景

一致した時代背景とは、「万歳は本当に明治期に作られた説がある」ことと「世紀末の日本に伝統を正当化する動きがあった」ことだ。

万歳は本当に明治期に作られた説がある

石井研堂著『明治事物起原』の「萬歳の始」によると、大日本帝国憲法発布の日、1889年(明治22年)2月11日に、明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが最初だという。これ自身は一説に過ぎないものの、『万歳三唱令』で定めた施行日と元号が偶然一致してしまったのである。創作者たちは意図していなかったことだろうが、これにより「万歳作法の規定」に対して妙なリアリティが付与されてしまったのだ。これを補強するように、施行日を明治22年に合わせた改編版まで出回っていたという。

世紀末の日本に伝統を正当化する動きがあった

共同通信の報道があった1999年、一つの法律が施行された。その名前は「国旗及び国歌に関する法律」。それまで国旗も国歌も法律で定められていなかったのか、と驚くものの、とにかく本法律のように「伝統を正当化しよう」、という機運が当時の日本にはあったようだ。このことが、「万歳作法を規定する」文書の普及に役立ったのかもしれない。

まとめ

本来は『宴会ギャグの文書』というメタデータを持つ『万歳三唱令』なのだが、普及に伴いメタデータが揮発してしまった。これにより主題が「宴会ギャグ」から「万歳そのもの」へとすり替わってしまった。ここに「万歳の起源は実際明治期だったらしい」「ちょうど日本国内で伝統を正当化する動きがあった」という背景が文書の尤もらしさを強化してしまい、全国的な広がりにつながってしまったのかな、と個人的には思う。

本来、「万歳」に定型というものはない。好きな形で喜びを表現すればよい。だったら出所は怪しいけど尤もらしいこのポーズが「うちの定型」ってことでいいんじゃないの。そんな良く言えばおおらか、悪く言えば適当な受容のされ方が、この文書の広がりからは感じられる。だがそもそも宴会ギャグとして生まれたジェスチャーである。それくらいのノリのほうが、扱いとしてはちょうどよいのかもしれない。


参考文献

注釈


  1. 1973年のトイレットペーパー騒動は「石油危機でトイレットペーパーが不足する」というデマから全国的な買い占め騒動に。1973年の豊川信用金庫事件は「豊川信用金庫が倒産する」という女子高生の冗談が広まり、実際に取り付け騒ぎが発生した事件。 

  2. 明治時代初期に設置された最高官庁『太政官』によって交付された法令。『断髪令』や『廃刀令』などが有名。 

  3. 天皇陛下の名前と印章のこと。 

  4. 例えば、2000年には朝日新聞の記者が南九州の大きな神社で神主から内向き万歳を「作法」として教わっていたり、2010年には自民党の木村太郎が当時首相の鳩山由紀夫に対し、式典中に行った前向き万歳について「正式な万歳の作法とは違うように見受けられた」と国会で質疑を行ったりしている。 

  5. 最初は天皇陛下が云々ということを考えていたが、それは不敬罪になるかもしれないという忠告から、太政官布告の体をとることにしたという。 

  6. 1年の開きがあるが、これはAが西南戦争終結を明治11年と勘違いしていたことによる。 

カテゴリー: 社会科学 | タグ: , , | コメントする