笑える漂流、笑えない現実――龍睡丸漂流譚をめぐる歴史と物語

無人島に流れ着いた十六人が、裸で暮らし、ウミガメを飼い、教室まで開いた。そんなワクワクするような漂流譚を読むと、「ほんとうに実話なのだろうか?」と身を乗り出したくなる。しかも同じ遭難を描いた別の記録を読むと、そこにある空気はまるで別物だ。笑って読める冒険譚の裏側には、どんな現実と、どんな語りの工夫が隠れていたのか。本コラムでは、『無人島に生きる十六人』と『探検実話 龍睡丸漂流記』を手がかりに、龍睡丸遭難の実像と「歴史と物語のグラデーション」をご紹介しよう。


龍睡丸

明治32年(1899年)12月、静岡の港に一隻の船が入港した。船の名前は「的矢丸」。漁業調査からの帰りである船内には、出港時にはいなかった十数人もの船員がいた。彼らは前年に同じく漁業調査のために出港していた「龍睡丸」の船員。なんと彼らは船旅の途中で嵐に巻き込まれ、4か月もの間漂流した無人島で生き抜いていたという。

龍睡丸の沈没やその後の漂流生活の様子は、須川邦彦著『無人島に生きる十六人』という漂流記によってある程度の知名度を誇っている。この本は無人島漂流という絶望的な状況にもかかわらず、なぜか全編にわたってゆかいな様子で語られており、内容も非常に面白い。次の章で、本書の内容をかいつまんでご紹介しよう。

無人島に生きる十六人

航海のきっかけ

本書は著者の須川が明治36年(1903年)5月、東京高等商船学校の実習学生であったころ、教官の中川倉吉から聞かされた体験談の紹介という体で始まる。それは中川が報效義会1で龍睡丸という船の船長をしていたころの話だという。龍睡丸は、千島列島の先端にある占守島と内地との連絡船として機能していた船であった。

千島列島というと日本の北端。冬場は雪と氷に埋もれることから、島と内地の交通は途絶えてしまう。そのため、龍睡丸は晩秋から翌年春の間は東京で係船され続けるという。これを有効活用するため、中川は明治31年(1898年)の秋、南方の太平洋沖に出かけて漁業調査を行う計画を立てたという。同様に冬の間遊ばせている船が数多くあるため、調査がうまくいけば漁業に役立つだろうとの算段だ。

準備と船出

当然、航海というものは船長一人で運用できるものではない。そこで中川は以下メンバー15名を乗組員として集めた。

  • 運転士:榊原作太郎
  • 漁業長:鈴木考吉郎
  • 水夫長
  • 報效義会会員4名
  • 練習生2名
  • 小笠原帰化人23名
  • 水夫・漁夫3名

そしてその他装備を整えた龍睡丸は、ついに明治31年12月28日、東京から太平洋へと乗り出したのである。

帰り道での出来事

ここから先、本題である漂流まで少し長いので省略する。漁は順調にいくも強い大西風にあおられてマストが折れるなどのハプニングや、何とかたどり着いた避難先のハワイ諸島で乗組員のストイックな姿勢が「世界の海員のお手本」と称賛されるなど、その内容も面白いので、気になった方はぜひ本書を読んでいただきたい。今なら青空文庫にて無料で読むことができる。

さて、漂流が始まるのはホノルル港を出た日本への帰路でのことである。明治32年(1899年)5月18日、パール・エンド・ハーミーズ礁3沖でのことである。午後10時、突如として風が凪ぎ、帆船である龍睡丸は止まってしまった。このまま流されて暗礁に乗り上げてしまうと大変なので、錨を下ろして停泊することが定石なのだが、あいにく海が深く、それもできないような状況であった。こうして船は潮のままに流されてゆくのであった。

暗礁乗り上げ

そのまま翌19日は潮に従う形で流され続けてしまう。状況が変わるのは翌20日の午前1時頃、なんと海底の深度が急速に浅くなっていったのだ。慌てて錨を下ろすも、爪が引っかからない。船は錨を引きずるようにしてなおも流されていく。ついに錨の爪が海底を引っかくも、大波に襲われた衝撃で錨鎖が引きちぎれてしまった。

そうこうする間にも龍睡丸は暗礁に近づく形で流されてゆく。そしてついに、大音量と共に大岩が船底を突き抜いてしまった。龍睡丸は、暗礁に乗り上げてしまったのだ。午前2時ごろのことであった。

難破船からの脱出

乗り上げた後も船体は波にさらされ続け、徐々に破壊されてゆく。中川は船内にある伝馬船4を守ることを命じる。夜が明けようという頃、服を着られるだけ着込んだ船員たちは、運転士と水夫長が乗り込む伝馬船を龍睡丸から下ろした。伝馬船は一瞬のうちに大波の中に消えるものの、しばらくして海面から頭を出す大岩のもとに流れ着き、運転士と水夫長もその岩の上へ這い上がることに成功。

その後、ロープを用いた運搬方法で乗組員全員の救出に成功。合わせて、漂流生活に必要と思われる米や食料などを確保。それらを即席で作ったいかだに乗せ、全員が乗り込みぎゅうぎゅうの伝馬船は岩を離れたのだった。

無人島の発見

しばらくこぎ続けると、草一本生えていない小さな島を発見する。ひとまずこの島に降り立ち無事を祝うものの、流石にこの島で生活は厳しいということで、周囲を探してみると青々と草の生えた大きな島を発見。一同は再び伝馬船に乗り、この島へと向かった。

上陸した島は木が一本も生えていないものの、草は一面に茂っていた。また、高台というものがなく、一番高くても海面から4メートルといった程度。平均すると海抜2メートルくらいという小島であった。

裸暮らし

上陸後、中川は乗組員たちを集め、ある命令を下す。なんと全員衣服を脱ぎ、裸になれ、というものであった。何年かかるかわからない島の生活中、衣服は重要である、特に冬のことも考えると、裸で暮らせる間は裸であるべきだということだった。総員、この言葉に従って衣服を脱ぎ、裸での生活がスタートしたのだった。

そして彼らはいかだの荷物の回収、井戸掘り、周囲の探索、蒸留水の製造といった作業を始めていく。

飲み水の確保

無人島生活では、まずなんといっても飲み水の確保が重要だ。そこで、彼らは珊瑚の塊と砂でかまどを拵え、蒸留水製造器を作成。探索の結果見つけた流木を薪にわずかな蒸留水を得る。燃料が大量に必要なうえ、リターンの蒸留水は少ない。木材自体が貴重な資源である現状、蒸留という方法に頼りきることはできないと判断した。

もう一つの飲み水確保手段である井戸掘りでは、深さ4メートル付近で水が湧いてきた。しかしその水色は真っ白なうえ、塩辛くて飲むことができない。いくつかポイントを変えて試してみるも結局この日は、飲める水が湧き出す井戸は作ることができなかった。

ねぐらと夜の作戦会議

拠点となるねぐらは、小さな木材を柱とし、帆布を屋根に張ったテントで作り上げた。その中に龍睡丸から引き上げた食料や道具などを入れていく。夜、天幕に集まった一同は島にいた正覚坊5で作った料理を食べ、就寝する。

皆が寝静まったころ、中川は運転士、漁業長、水夫長をテントの外に呼び出し、今後の相談をする。まずは井戸である。この島には草が生えていることから、草の根は真水を吸い上げていると推定できる。そこで、明日は草の根に近い浅い井戸を掘ることを提案。また、井戸水が白い問題に関しては、サンゴ礁ゆえに石灰成分が多いためだとし、しばらくすれば沈殿するだろうと推測した。こうして翌日の方針を決めた4人は、再びテントの中へと入っていったのである。

4つの決まり

翌朝5月21日、その日の当番を決めたのちに、中川は島での生活において守るべき4つの決まりを説明する。それは以下のようなものであった。

  1. 島で手に入るもので暮らしていく
  2. できない相談を言わない
  3. 規則正しく生活を送る
  4. 愉快な生活を心がける

一同はこれらの決まりを守ることを誓い、その日一日を忙しく働いたという。そして翌朝早くに中川は再び運転士、漁業長、水夫長をテントの外に呼び出し、以下精神面の認識共有を図った。

  • 絶望しないこと
  • 16人が団結すること
  • 島を塾や道場として青年たちを導くこと
  • 規律を守ること

火種の作成

その日の午後、蒸留水の運用停止を決定する。燃料問題のためである。代わりに、天幕に降った雨を石油の空き缶にためる工夫をした。また、薪は流木だけでは足りない。そこで、魚の骨、亀の甲といった廃棄物も薪の代わりとすることにした。

一方、火種についても課題が残っていた。火を起こすためにマッチがあるものの、数に限りがある。火を起こすために毎回使用していたらすぐに切れてしまう。双眼鏡のレンズで太陽光を集めるという方法も取れるが、これは晴れている昼間という状況に限られてしまう。そこで、彼らは缶詰めに正覚坊の油をつぎ込み、帆布をほぐした糸で作った灯心を差し込む形で灯明をつくり、これを昼も夜も消えないように守って万年灯とした。

砂山作り

5月24日の朝から、付近を通る船を見つけるための砂山作りが始まった。作成ポイントとして、島中で最も高い西海岸の草地が選ばれる。石油缶や木のバケツといったものでこのポイントに砂を運搬していく。ところが、ここで一同の体調が悪くなっていく。というのも蒸留水の運用を停止し、塩分が多く石灰成分も沈殿する井戸水に頼るようになったことから、皆ひどい下痢をするようになってしまったのだ。

この状況を救ったのは先の万年灯だった。同様に体調を崩した中川がテントで万年灯を吊るした丸太に腰を掛けたところ、万年灯からの熱が伝わったのか腰から下腹が温まり、体調が戻ったのだ。そこで乗組員たちはみな同様の方法で、腹痛を治療していったのだという。そして8日間の砂運びの後、5月31日には4メートルという砂山が出来上がった。

ここで、中川は練習生と会員にこの砂山に立った時に見渡せる水平線の距離を求めるよう課している。この状況を利用して青年たちを導く、という首脳陣の誓いを守っているわけだ。

大量の流木と見張り櫓

翌朝見張り当番から報告が入る。なんと、浜にたくさんの材木が流れ着いているのだという。おそらく、砕けた龍睡丸の残骸だろう。これらの流木をかき集め、砂山の上に櫓を組み立て始める。出来上がった櫓の高さは4メートル半。海面から数えると、12メートル半という高さになる。

こうしてかなりの高さの見張り櫓を手に入れた。通りかかった船を見つけた際に島に彼らがいることを伝えるため、砂山の上に魚の骨や亀の甲、枯草や板切れなどを用意した。これらを燃やしてかがり火を作り、船に伝える信号とするためだ。

ウミガメ牧場

7月になるとウミガメたちの産卵期となり、卵を産みに島へとやってきた。ここで冬支度として上陸した正覚坊たちを飼うことを計画する。はじめは穴を掘っていけすを用意したが、石灰質にやられたのかカメたちが全滅してしまう。

そこで、海岸に棒杭を打ち込み、綱で正覚坊の足を縛ることで、ある程度自由に移動させつつ島にとどめておく「牧場」を作り出した。何度か工夫した結果、三十数頭という正覚坊たちを牧場内で生息させることに成功したのである。

アザラシ

島には小さな半島があり、そこには小型のアザラシがいた。中川はこのアザラシの生息地に立ち入らないことを厳命。というのも肝から作る薬や、越冬のための毛皮、そして非常食、といった形で、アザラシをいざという時の備えとして機能させるためであった。そのため、不用意に近づいてアザラシたちが人間を警戒するようなことを避けたのである。

しかし、一部の動物好きな乗組員たちはこの命令を破り、アザラシたちと交友関係にあったようだった。

無人島教室

島の生活に慣れてきたころ、学科の時間が取り入れられ始めた。練習生や会員のために、中川と運転士、漁業長らが教師となり、航海術や漁業水産、数学と作文といった授業が導入された。苦心して作成した学用品を用いて、文章を書いたり、計算をしたりしたという。

また夕方になると総員ですもう、網引きといった運動を行い、海で汗を流し、夕食をとるといった順序を規則正しく繰り返し、その後は唱歌や詩吟といった余暇を楽しみ、就寝していたという。一日の疲れで、ぐっすり眠ることができ、気の弱いことを考える暇はなかったという。

船の発見と帰還

この他にも無人島での生活は様々語られているのだが、本コラムでは省略する。最終的には9月3日に見張り櫓の上から船影を発見。中川は水夫長と伝馬船当番3人を連れて伝馬船に乗りこみ見つけた帆船に漕ぎつく。偶然にもその船は日本の「的矢丸」であり、しかも船長は中川の友人であった。

こうして、的矢丸の乗組員たちに16人は救出された。明治32年(1899年)12月23日、的矢丸は駿河湾の港に入港。全員無事に帰還を果たしたのである。

感想と疑問

以上が、『無人島に生きる十六人』のかいつまんだ紹介である。いかがだっただろうか。かなり省略した部分があるものの、無人島に着くなり裸になる、ウミガメ牧場といった変わった施設の作成、有事を考え安易にアザラシに手を掛けないといった規律だった行動など、漂流記の中でもユニークさが際立っている作品であることがわかるだろう。特に、島の生活に慣れてきてからは無人島で教室を開校するくだりは非常に興味深い。

個人的な感想は「非常に面白い」である。全編にわたってどこか愉快な雰囲気が漂い、無人島を明るく過ごしていく乗組員たちの様子は読んでいて気持ちが良い。結局誰も犠牲にならなかったということもあり、読後感も非常に良いものだった。一方で、こうした疑問も湧いてくるのである。「面白すぎないか」と。

ノンフィクション?

さて、本書は現在、”ノンフィクション”という位置づけで評価されている。つまり本書で紹介されているユニークなエピソードたちは事実に基づいたものである、というわけだ。一方で、事実にしてはちょっと面白すぎやしないだろうか、という疑問が湧いてくるのである。面白すぎる創作が真実と受容されてしまうケースは数多い。本作も、実はそういうケースだったりしないだろうか。

とりわけ怪しさを感じるのが本書の出版時期だ。本書は昭和23年(1948年)10月刊行と、龍睡丸の遭難事故から実に50年もの月日が経過している。著者の須川が中川から話を聞いたという明治36年(1903年)から数えても45年と、いくら何でも年月が開きすぎだ。半世紀も前に聞いた話にしては、ずいぶんと詳細に覚えているものである。

ちなみに、東京都立中央図書館のレファレンス事例によると、明治32年12月25日の読売新聞に「報効義会失踪船の帰着」の見出しで記事が載っているとのこと。そのため、龍睡丸の難破と無人島での遭難生活自体は事実としてあったらしい。では、かなりユニークな無人島での生活内容はどうなのだろうか。

遭難と同時代の資料

実は、龍睡丸の遭難事故に関しては、同時代に出版された資料が存在する。それが、大道寺謙吉著『探検実話 龍睡丸漂流記』である。こちらは明治36年(1903年)9月12日と、事故から5年経ったころに出版された書籍だ。

著者の大道寺は事故当時、南洋貿易漁獲株式会社の専務取締役という立場であり、龍睡丸の運営母体である報效義会の代表である郡司成忠とも親しかったという。著作内でも遭難期間中の報效義会内部の様子についてを会の役員が大道寺に語り、龍睡丸の目撃情報を求められるなどしている。どうやら彼は報效義会とはかなり深いつながりがある人物だったようだ。

大道寺の著作も一次史料とは言えないものの、出版年の近さや、運営母体との関係性の深さから、ある程度信頼できる資料と考えられそうだ。次の章では、須川の著作(以降『無人島に生きる』と表記)と、大道寺の著作(以降『漂流記』と表記)における、龍睡丸乗組員たちの無人島での様子を比較していこうと思う。

著作の比較

服装

なんといっても『無人島に生きる』で印象的なのは、島に到着した直後に全員が全裸になったことである。有事に備えた面白い判断だと思った内容であるが、『漂流記』を見ると、

天候温暖の所故、此時巳に夏衣を着て居つた

とある。どうやら普通に夏服を着ていたようだ。冷静に考えると、全裸でいると裂傷であったり、虫刺されであったりに遭遇するリスクが跳ね上がる。さらにそこから感染症に罹患する可能性だってあるわけで、「有事」を避けるためにも服は着ていた方が合理的と言えるだろう。

飲み水

『無人島に生きる』ではまず蒸留水製造装置の作成と井戸掘りで飲み水を確保しようとしていた。一方、『漂流記』では、

正覚坊を捕獲して、其の血に喉を潤をゝし、是れより井戸掘に掛らうとて三人、四人と別れ

とある。なんと初手で飲んだのはカメの血であった。よく考えてみると、いきなり蒸留水製造装置を作成するのは骨が折れる。それよりは島内にいる生物由来の水分の方が少ない労力で得られるだろう6。また、『漂流記』では蒸留水製造装置が登場しないものの、井戸掘りで苦戦して最終的に草の根に近いところを掘る戦略を採用した点は一致していた。

火起こしと万年灯

火起こしに関してはある程度両著書で記述が一致している。『漂流記』では、

万難を冒して破船より持出したから双眼鏡丈けは幸いに手元にあった、其上「マッチ」もある

と記載されており、これは『無人島に生きる』の内容とも矛盾しない。しかし、その後作られたという万年灯に関しては、記述が一切見当たらなかった。

体調不良からの回復

上記の通り万年灯なんてものは『漂流記』には登場しないため、下痢から回復するシーンも『無人島に生きる』とは異なっている。とはいえ、

体を温むることを工風し、交るゝ療治に餘念なかったゆえか漸次快復して

とあり、体を温めることがキーであることは一致しているようだ。

アザラシ

さて、『無人島に生きる』では中川の厳命により手出しを制限されていたアザラシだが、『漂流記』ではどうだろうか。『漂流記』では、

「ヒーヤシール」(北海道にては「トヽ」と稱する鳥)

が登場する。鳥扱いなのが面白いが、『無人島に生きる』でもアザラシについて

ヘヤシール(小型のアザラシ)

と説明されていることから、この「鳥」が、『無人島に生きる』に登場するアザラシに該当すると考えられる7。『漂流記』でもやはり乗組員たちと交友していたようだが、

終には肉は食われ皮は剝がれて、冬衣にまで用いらるゝ彼れの末路こそ憐れであった

とあることから、普通に手出ししていたようだ。考えてみると、有事の際にアザラシがいるとも限らないので、備えるなら事前から用意しておくのは当然ともいえる。

ウミガメ牧場

また、『無人島に生きる』に出てきたウミガメ牧場は、『漂流記』では影も形もなかった。ただし、

眞天翁シーヤシール等他日の食料及び衣類の料にとて、養ひ置し

と記載されており8、鳥獣の一部は有事のために養われていたようだ。

砂山作りと無人島教室

では、これまたユニークな無人島での教室開催についても、『漂流記』には登場しないのだろうか。実は、無人島教室に関しては『漂流記』にも、

午后は測量術、運用術、および英語、数學等を教授すること定べし

という形で登場している。しかし、開催の動機は『無人島に生きる』にあるような「島の生活に慣れてきた」からではない。なにせ『漂流記』の方では、この頃になると乗組員たちは「ホームシック」に掛かっており、島内全体が深い絶望に包まれていたからだ。中川は

畢竟彼れ等は暇多ければ常に空想に耽り、夜は夢に悩まさるゝなれば暇なからん事こそよからん

と考え、午前中に砂山を作り、午後から無人島教室を開催することで心身ともに疲弊させ、乗組員たちがこれ以上絶望に陥らないよう図ったのである。『無人島に生きる』とは因果が逆転しているのだ。

空気感の違いと家族

そういうわけで、『漂流記』では「愉快な生活を心がける」などといった楽観的な空気は全くない。そこには他の漂流記と変わらない、来るかわからない救助への不安、食糧難による苛立ち、そして刻一刻と迫る死への恐怖といった絶望的な空気が広がっていた9

また、『漂流記』は著者が龍睡丸の運営母体である報效義会に近しい人間ということもあり、当時の様子も描かれている。龍睡丸は4月にホノルル港を出港したと連絡を受けていたことから、8月9月には帰港するとみられていた。ところが10月を過ぎてもその様子が見られない。そのため報效義会の東京支部には乗組員の家族が押しかけ、

難船して沈んだのでしようか、宅では父も、母も、兄も、皆な死んでしまったのであらふと云ふて、毎日ゝ泣いて、、、、暮して居ります

と悲痛な言葉を残していたようだ。

人数

そもそもの話として、乗組員の人数が違う。『無人島に生きる』では乗組員は16人であるのに対し、なんと『漂流記』は一人多い17人となっている。小笠原帰化人が前者は3人であるのに対し、後者は4人になっているのだ。ただしこれに関しては先に上げたレファレンス事例を見ても、どちらが正しいと断定できる史料は確認できなかったようだ10

比較結果

以上が、『無人島に生きる』と『漂流記』の無人島生活の描写の違いである。正直、思っていた以上に差異があって驚いた。空気感がまるっきり違うため、読み味が全然違う。先に述べた通り、『漂流記』の方も一次史料ではないため描写がどれだけ信頼性があるか11、という点には慎重になるべきだろう。しかし、差異がある部分は『漂流記』の方が妥当性が高い記述が多い。そのため、やはり『無人島に生きる』はかなり創作色が強い、言ってしまえば実話をもとにした”漂流小説”という位置付けが正しいのではないのかなと感じた。さすがにノンフィクションとしての位置付けは再検討の余地がありそうだ。ちょっと残念。


以上が明治期に発生した龍睡丸の難破事故及びその後の乗組員たちの遭難生活、そしてこの出来事を題材とした二つの漂流記の物語である。いかがだっただろうか。個人的には、やはり『無人島に生きる』が完全なノンフィクションではなく、創作されたイベントが数多く挿入されている可能性が高い点が残念に思えてならない。

しかし、だからと言って『無人島に生きる』の魅力が損なわれた、ということはないと思う。本書で挿入されたと思わしきイベントの数々は、本来絶望的な状況を希望に変え、規律を守り、力強く生き抜くためのものだ。それはとても魅力的であり、物語としてもなお完成度が高いのである。

また、二つの漂流記を比較したことで、”史実”が時を経て”物語”となる過程が垣間見えたように思え、非常に面白かった。単なる記録にとどまらない、歴史と物語のグラデーションを読むことができたように思う。そう考えると、この二作の比較で真に得られたのは、ノンフィクションか小説かという二者択一ではなく、歴史が語り継がれることで変質し、物語へと至るということなのかもしれない。


参考文献

注釈


  1. 海軍大尉出身の探検家である郡司成忠が結成した、北千島(千島列島)開拓や探検・漁業振興を目的とする民間の開拓団体 

  2. 1876年の日本領有宣言以前に小笠原諸島へ入植し、1882年までに日本へ帰化した欧米系・太平洋系先住民とその子孫 

  3. ハワイ諸島北部の環礁 

  4. 本船と岸との間で荷物や人を運ぶために用いられた小型の木造和船 

  5. アオウミガメのこと 

  6. 肉はそのまま食料にもなる 

  7. おそらくオットセイの英語「FurSeal」を指していると思われる 

  8. 眞天翁はアホウドリのこと。シーヤシールはヒーヤシールの表記ゆれか 

  9. 釣りがうまくいったりとしたときなどのポジティブなイベント発生時はさすがに楽しそうな雰囲気であった 

  10. 明治32年4月10日の朝日新聞記事「龍睡丸布哇に至る」の見出しは「船長以下16名、内小笠原4人」とあり、どちらとも解釈できる内容となっている 

  11. 例えば会話のシーンなどは著者の大道寺の創作が多いような気がする。

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存在しない偉人の功績――”クロード・リットル”と単位”L”の意外な物語

物事の量を測るための基準として、単位がある。重さを測るための「グラム」、長さの「メートル」などが身近な単位だ。ところで、この単位には、さまざまなルールが存在するということはご存じだろうか? その中で、「人名に由来する単位は大文字で表記し、それ以外は小文字で表記する」というものがある。例えば先に挙げたグラムやメートルはどちらも古代ギリシャ語由来なので「g」、「m」と小文字で表記される。一方、電圧を測る「ボルト」はアレッサンドロ・ボルタ12に由来するため大文字の「V」で表記される。

それでは、体積を測るための「リットル」は何に由来するか、推測できるだろうか? 日本だと世代によって認識が変わるかもしれない。年配の方は、筆記体の小文字「ℓ」表記に馴染みがある。そのため、少なくとも人名由来ではないな、と推測する人が多いだろう。一方、現在の教科書13では、大文字の「L」で表記が統一されている。そのため、若い方は逆に人名由来なのでは、と推測する人が多いと思う。

先の問いに対する答えだが、リットルはフランス語由来の単位だ。先のルールに従うと単位表記としては小文字「l」を使うことになる。しかし、小文字の「l」は数字の「1」と区別がつきづらい。そのため、国際単位系(SI)では、リットルだけ例外的に大文字の「L」使用が許されているのである。そして誤読防止のため、国際的には大文字の「L」表記がよく使用されている。

この矛盾したような状況から、ウソの歴史が作られてしまった。本コラムでは、権威ある科学誌までも騙されてしまった架空の人物クロード・リットルをご紹介しよう。


オタワのホテルにて

1977年12月、二人の大学教員がカナダの首都オタワのホテルで缶詰めになっていた。二人の名前は化学教師のレグ・フリーゼンと物理教師のケン・A・ウールナー。彼らは所属するウォータールー大学14から現地高校の学力について調査訪問の最中であったのだが、激しい吹雪にあってしまったのだ。

身動きが取れない二人は、仕方なくスコッチ片手に他愛もない会話を繰り広げていた。そこでフリーゼンがウールナーに対し、当時アメリカの化学者たちが体積の単位表記「l」は数字と見間違えてわかりづらい、「L」に変更すべきだと主張しているということを紹介した。しかし、国際度量衡総会(CGPM)が定める命名規則では大文字での単位表記は人名由来のものしか認められない15

そこで彼らは考えた。いないなら、創ればいい。スコッチのボトルがほとんど空になるころ、そのアイデアの大部分は固まっていた。そして、フリーゼンが発行するCHEM 13 NEWS16にて、歴史に強いウールナー17が作成する「伝記」を掲載することが決定した。

執筆方針

ウールナーは伝記作成にあたって、冗談臭さを極力排し、リアリティのある一人の化学者の伝記に仕上げる方針とした。年代や固有名詞、周辺の史実は極力整合させたうえで、”一人だけ”架空の人物を紛れ込ませたのだ。例えば舞台となる18世紀のフランスは科学史上のホットスポットである。また、ピエール・ルイ・モーペルテュイ18の弟子、アンデルス・セルシウス19の友人といった設定で、実在の人物たちとの接続も抜かりない。

とはいえ読者が完全に信じてしまうとそれはそれで困る。そこで、図版やキャプションなどに明確なユーモアを仕込むことで、本文では気づけなくても、図版で気づけるような工夫を施した。また、読者が物語を補完し楽しめるよう、伝記の中に15年の空白を意図的に挟み込んだ。こうしてウールナーによって生み出されたクロード・エミール・ジャン=バティスト・リットル(以下、クロード・リットルと表記)の伝記が、CHEM 13 NEWSの1978年4月1日発行号20に掲載された。

次の章にて、掲載された伝記の内容をかいつまんで紹介しよう。

Claude Émile Jean‑Baptiste Litre(1716–1778)

まず、本論は「この偉大な研究者の没後200年を記念し、国際度量衡総会21は体積の国際単位(SI)に彼の名を用いることを決定した。個人名に由来する単位に大文字を用いる規定に従い、公式略号を”L”とする」という文から始まる。単位表記に「L」を使用したい、がこのジョークの第一義であるので、まずは主張をはっきりさせておこうという魂胆だろう。

続いて、クロード・リットルの生まれが紹介される。彼は1716年2月12日にフランスはメドック地方のマルゴー村に生まれた。父はワイン瓶製造業を営んでおり、代々続く稼業であったという。ワイン瓶という液体容器に関わる職人の子として生まれたクロードにとって、そのガラスの性質に関する知識がのちの体積測定の研究に大きく影響を及ぼしたと示唆しているわけだ。

師事と友情

16歳になるころには、リットルはその才能を開花させ、ピエール・ルイ・モーペルテュイに師事すべくパリへと移り住んだ。1736年、彼はモーペルテュイの助手として、スウェーデンのラップランドへの遠征22に伴った。

スウェーデンではウプサラ大学の天文学教授であったアンデルス・セルシウスが当局との連絡役を務めたという。そしてスウェーデン王国アカデミーの公式代表として遠征に同行し、リットルとセルシウスは固い友情で結ばれるようになった。セルシウスの測定の精密さに対する執着が、リットルののちのキャリアに深い影響を及ぼしたということだ。

謎の15年間

遠征の後の15年間、リットルの生涯は謎に包まれている。パリに戻ったと推測されているが、この期間の記録は極めて少ないという。未確認情報として

  • ニューフランス(現カナダ)を訪れ再測定した
  • ボルドーでガラス製造技術を磨いた

といったものがあるが、事実関係に相互矛盾やばらつきがあり、歴史家たちが頭を悩ませる課題となっている。そこで、この件に関して確かな情報を持った読者には、CHEM 13 NEWS編集部まで情報提供を求む、とある。ここで、読者にもこのジョークに乗っかる導線を引いたわけだ。

体積測定の精密化

1751年、化学者ギヨーム=フランソワ・ルエル23が公開講義にてリットルのガラス器具を紹介したことで、彼は再び歴史の舞台に現れることとなる。このことが契機となり、彼が製作した化学実験器具は爆発的に売れ、財を成したという。

そしてリットルが40歳になったころ、事業運営を他者に任せて彼は体積測定の精密化というミッションに挑むようになる。研究の成果として、

  • 内径がほとんど変わらない精密な円筒ガラス器具
  • 0.1、0.01、時に0.001単位まで刻まれた目盛り

といった器具を世界で初めて作り上げ、現在のメスシリンダーやビュレットの原型を作った人物とされている。

評価と晩年

1765年、リットルはイギリス王立協会から金メダルを授与された。また、晩年はドイツ、ヴェネツィア、ボヘミアといったガラス職人たちからの相次ぐ特許訴訟と闘いながらも、フランス国内では非常に高い評価を受けていたという。勤勉ですこぶる健康な彼だったが、1778年8月5日、その年のコレラ流行のさなかに早すぎる死を迎えた。

リットルは、標準となる液体の質量で体積を定義するという概念を提唱していた。彼の死から15年後、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ24率いる委員会が単位系を策定し、体積の定義に関してはリットルの提唱する方法が採用された。ただし、リットルは標準液体に水銀を指定していた一方、委員会が採用したのは蒸留水であった。

そして、体積の単位にはリットルが採用された。最初に提案した人物は、アントワーヌ・フルクロワ25だという。

初期の反響

以上がCHEM 13 NEWSに掲載された、クロード・リットルの伝記の大まかな内容である。当時の人物や出来事と非常に巧みに接続された、秀逸なパロディであることがわかるだろう。実際、初期反応は好意的なものだった。読者たちは、ウールナーの狙い通り”空白の15年”を補完したり、”娘の名前はMillieで、ミリリットルの語源だ”とさらにジョークをかぶせるなどして楽しんでいたようだ。

だが、この良くできたパロディはエイプリルフール発行というメタデータあってのもの。日付が経つほどこうしたデータは揮発していく。おまけに、現実の方がとんでもない”衝突事故”を起こしてきた。

混乱と収束

リットルの伝記が発表された翌1979年の国際度量衡総会で、なんと実際にリットル表記に「L」を使用することが認められてしまったのだ。

この偉大な研究者の没後200年を記念し、国際度量衡総会は体積の国際単位(SI)に彼の名を用いることを決定した。個人名に由来する単位に大文字を用いる規定に従い、公式略号を”L”とする。

という伝記の序文が、まるで”予言”のような形で実現してしまったのである。

そして、この状況を真に受けてしまったのだろう。世界的な学術機関であるIUPAC26が、雑誌「Chemistry International」に誤って事実としてリットルの伝記を掲載してしまったのだ27。しかもジョークと見抜かせるための図版は掲載されず、真面目くさって書かれた本文だけが。さすがに次号で撤回されたものの、リットルの伝記は面白すぎた。真実だと思い込む読者が激増し、ついにはカナダ放送協会の科学番組「Quirks and Quarks」で紹介され、ニューヨーク・タイムズの記者が「この欺瞞を終わらせる!」と痛烈に批判するなど、一般メディアにまで波及してしまったのである。

最終的には、この騒動は事実関係が整理され、自然消滅的に収束したようだ。ウールナーはのちに、「長年にわたって私に楽しみを大いに与えてくれたし、実害もほとんどなかった」と追想している28


以上がエイプリルフールのジョークとして作成されたものの、なぜか現実側が真実性を補強するような寄せ方をしてきた結果、デマとして騒動を巻き起こすことになってしまったクロード・リットルの物語である。いかがだっただろうか。個人的には、ウールナーが生み出した伝記はパロディとして傑作だと思った。クロード・リットルという架空の存在を実在する人物・出来事と巧みに接続させ「本当にいるんじゃないか」と思わせる内容と、一方でパロディとわかった読者が一緒に楽しむことができる工夫が非常に優秀で面白い。だからこそ、デマとして拡散されてしまったことは残念だなと思う。

さて、優れたパロディは時に真実としてみなされてしまう、ということは図らずも本サイトでも何度か取り上げてきたテーマとなっている。実際、「ジョークという文脈が揮発し」「現実の出来事が真実味を補強した」という点で、本件は「万歳三唱令」のケースと構造的に似ている。また、騒動の結果作者がうんざりする29という顛末は、「ヘンゼルとグレーテルの真相」を思い起こさせる。時代も場所も、媒体すらも異なりながら、どこか似たような事態が引き起こってしまうことは興味深い。心理学用語に「信念バイアス30」というものがある。これらの騒動は、ある種「面白い」という信念がバイアスとして強く働いたケースと言えるのかもしれない。


参考文献

  • Woolner, Ken A. ‘Claude Émile Jean-Baptiste Litre’ Chem 13 News 1978 4 pp.1–3 Reprinted in Chem 13 News, April 2009 issue. University of Waterloo.
  • W. H. Cherry ‘DATA-BASED INVESTIGATING: Accuracy of Information 1 (Figure 1.2)’ University of Waterloo 1995 Reproduces multiple articles including Chem 13 News (1978, 1988), The Globe and Mail (1995), Waterloo Gazette (1995), and Chemical & Engineering News (1980, 1995).
  • Chris Redmond ‘UW Daily Bulletin, June 3, 2008’ University of Waterloo 2008 https://bulletin.uwaterloo.ca/2008/jun/03tu.html 参照日: 2026-03-03
  • 小杉拓也 ‘単位「リットル」についてのジョークが大ごとになってしまった実話’ ダイアモンド・オンライン 2024 https://diamond.jp/articles/-/347159 参照日: 2026-03-03
  • スレンドラ・ヴァーマ ‘ゆかいな理科年表’ 筑摩書房 2008
  • Bureau International des Poids et Mesures ‘The International System of Units (SI)’ BIPM 2025 https://www.bipm.org/en/publications/si-brochure/ Version 3.02, updated 2025
  • Wikipedia ‘クロード・リットル’ 2025 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AB 参照日: 2026-03-03

注釈


  1. 1800年に世界初の電池を発明したイタリアの物理学者 

  2. 2011年の教科書改訂により変更された 

  3. オンタリオ州ウォータールー市に本部を置くカナダの州立大学 

  4. 当時はリットルに対しての例外は定められていなかった 

  5. 教育コミュニティの知識共有に大きく貢献した高校化学教師向けの教育誌 

  6. ウールナーは講義中に幅広くユーモラスな歴史知識を披露しており、それが当時学生から人気があった 

  7. 最小作用の原理を提唱し、地球が扁平な回転楕円体であることを実測で示した18世紀フランスの数学者・科学者 

  8. 摂氏温度の基礎となる100分割温度目盛りを提唱し、地球扁球説の実証にも貢献した18世紀スウェーデンの天文学者・測地学者 

  9. 言うまでもなくエイプリルフールに合わせている 

  10. SIを維持するために加盟国参加によって開催される総会議 

  11. 実際に行われた科学探検。地球が扁球であることを実測で証明するために、北極圏で子午線弧長を測った 

  12. 18世紀フランス化学者の一世代を育てた、パリ王立庭園の著名な化学教師 

  13. 解析力学を確立し、変分法・数論・天体力学などに決定的貢献を残した18〜19世紀の大数学者 

  14. 化学命名法を標準化し、メートル法の導入にも関わったフランス革命期の化学者 

  15. 化学物質の命名法や元素名、単位、記号の国際標準を策定する学術機関 

  16. IUPACは1979年9月に別雑誌で本伝記をジョークとして紹介していたので、今回もジョークのつもりだったのかもしれないが、それを支持する資料は見当たらなかった 

  17. 全然懲りていないな 

  18. ウールナーは「地獄には、失敗したユーモア作家専用の特別なコーナーがある」と追想している 

  19. もっともらしい結論が示されると、結論に至るまでの過程の論理性も、あわせて高く評価してしまうというもの

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NHL史上もっとも有名な”架空の選手”――異例のドラフトが生んだ虚構「ツジモト・タロウ」

1974年、アイスホッケーリーグNHL31のドラフトにて、ある無名の選手が選出された。彼の名前はツジモト・タロウ。日本のアマチュアリーグでプレーしている選手だという。そんな選手、いただろうか……? 連絡を受けたコミッショナーが首をひねるも、ひとまずは指名選手として登録される。だが、彼の疑問は完全に正しかったのだ。なぜならそんな選手はこの世に存在しなかったのだから。本コラムでは極めて異例な形で行われた1974年のNHLドラフトと、その中で生まれた架空の選手、ツジモト・タロウをご紹介しよう。


ライバルリーグとドラフト開催

1974年、NHLはあることに頭を悩ませていた。1972年に誕生した新リーグWHA32との選手獲得競争が激化し、各チームが思ったように選手を確保できなくなってきたのだ。特にドラフトでは、WHAの方がNHLよりも早く開催しており、さらにNHLが指名できない若い選手33もWHAが確保するなど、対応が後手に回ってしまっていた。

そこで、NHLはその年のドラフトをきわめて特殊な形で行うことを決定した。それは以下条件で開催するというものだった。

  • 通常よりも早く開催する
  • 完全に秘密裏で行う
  • すべての進行を電話で行う
  • ドラフト対象を18歳に引き下げる
  • 指名は通常の倍以上の25ラウンド
  • ドラフト期間を3日間に分ける

通常、ドラフトはチーム代表が会場に集まり対面形式で進行される。それを完全非公開で、電話だけのやり取りで行うというのだ。滞りなく行うことができるのだろうか? そうした一抹の不安を抱きながらも、1974年5月28日、この特殊ドラフトが幕を挙げた。

地獄のドラフト

結論から言うと、このドラフトは滞りまくった。なにしろNHLコミッショナーのクラレンス・キャンベルが全18チームのGMに対して指名順に電話をかけなければならない。おまけに、指名がかぶらないよう、これまでどの選手が選ばれたのかを口頭で伝える必要がある。そのあとでようやく、GMは自チームがどの選手を獲得したいのか指名ができるわけである。

ずっと電話をかけ続けるキャンベル側も大変だが、GMたちにとっては電話がいつかかってくるかわからないし、やりとりも非常に煩雑で長い。もはやこのドラフトはいつ終わるのかわからない地獄へと変貌していたのである。

注目度の高い上位指名が続く初日の指名はなんと8時間にも及んだという。このドラフト形式がどれだけ大変だったのかがわかるというものである。

いたずら

ドラフト二日目、バッファロー・セイバーズ34のGMパンチ・イムラックは既にうんざりしていた。このドラフトはいつまで続くんだ? 終わりの見えないドラフトに苛立ちを募らせた彼はこう考えた。キャンベルにいたずらを仕掛けてやる。何をしてやろうか

セイバーズのドラフト指名チームは

  • GM パンチ・イムラック
  • コーチ フロイド・スミス
  • スカウティングディレクター ジョン・アンダーセン
  • 広報ディレクター ポール・ウィーランド

という4名体制だった。チームの中でアンダーセンが提案する。誰も知らない選手を指名してみるのはどうだ? そしてウィーランドが便乗した。裏取りが難しい場所をでっち上げればいい。例えば日本とか。

こうして、架空の日本人選手をでっち上げてドラフト指名するというばかげたプロジェクトが、地獄のドラフトの裏で立ち上がったのだ。

雑貨店への問い合わせ

その日、バッファローにある雑貨店「ツジモト ガーデン&ギフト」に、奇妙な問い合わせ電話がかかってきた。問い合わせ元は地元ホッケーチームのセイバーズ。問い合わせ内容は以下の3点だった。

  • 店名を使用していいか
  • 日本人男性のありふれた名前は何か
  • サーベルを日本語に訳すと何か

店主である日系アメリカ人ジョシュア・ツジモトは困惑しつつも店名の使用許可を出し、質問には「タロウ」、「カタナ」と回答した。

問い合わせたのはウィーランドであった。彼は学生時代、通学中にこの雑貨店の前をよく通っていたことを思い出したのだ。でっちあげに必要な情報はそろった。指名対象のドラフト選手はツジモト・タロウ。彼は大阪出身でJIHL35トウキョウ・カタナズに所属する20歳のフォワード。直近シーズンでは15ゴール10アシストの成績を残したという設定だ。

指名

キャンベルからセイバーズに11巡目指名の電話がかかってきた。10巡目までに目ぼしい選手はすべて取った。いよいよその時がやってきたのである。恒例となった長ったらしいやり取りの後、イムラックは答えた。セイバーズの次の指名はトウキョウ・カタナズのツジモト・タロウだ

「ツジモト?」とキャンベルが聞き返したかどうかは定かではないが、間違いなく困惑したことだろう。何しろ当時のドラフトは北米の選手が中心。近年になってようやく欧州の選手にも注目が集まってきた程度である36。アジア圏の選手など珍しいにもほどがある。しかし、ドラフト指名選手の国際化が進んでいることも確かだ。そんなわけで、キャンベルはツジモトを実在する無名の有望株だろうかと仮定し、指名を受け入れてしまったのだ。

こうして、セイバーズはドラフト11巡目、全体183位でツジモトを指名することに成功したのである。

いたずら継続

イムラックらが仕掛けたいたずらは、完全に秘匿された。セイバーズオーナーであるノックス家にすらである。そして、彼らはこのいたずらをどれだけ続けられるか試すことにした。

彼らはタロウがトレーニングキャンプに実際現れるかのように振舞った。ロッカールームの席を割り当てたのだ。そして、背番号13「TSUJIMOTO」と書かれたジャージも用意するという念の入れようである。

インターネットが普及しておらず、またアジア圏にスカウト網もないような時代である。多くのメディアは関心を持つものの、カタナズやツジモトの調査は容易ではない。何も知らないオーナーは「この日本人選手はいつキャンプに来るのか?」と何度も訪ねてきた。イムラックはメディアやオーナーの問い合わせに対して、「今シーズンに渡米が間に合うかはわからないが、彼の獲得権利はキープしておく」と回答したという。

また、同僚となるドラフトルーキーたちも彼の存在には興味津々だったようだ。セイバーズにドラフト2巡目で指名されたダニー・ゲアによると当時「タロウはいつ来るんだ?」という話題や、「彼はビザの取得に手間取っている」という噂などが沢山上がっていたという。

種明かし

とはいえ流石にキャンプ以降までいたずらは続けられなかった。チーム運用に支障が出るからだろう。イムラックは、キャンプが始まって初めて、ツジモトが存在しないことを明かした。

当然、キャンベルは激怒した。イムラックの当初の目的は果たされたわけだ。結局、NHLの公式記録上、183位のツジモトは「無効な指名」となってしまったという。

ちなみに、この年のドラフトはツジモトで1巡無駄にしたもののセイバーズにとって「あたり年」であった。先に挙げたゲアはNHL初出場の試合開始18秒でゴールを決めるという鮮烈なデビュー後、800試合以上に出場した得点王で、彼の背番号18番は永久欠番となっている。ツジモトの直前に指名されたデレク・スミスも、335試合に出場し194ポイントを残すという立派な成績を残している37。それまでのドラフト結果に手ごたえがあったからこそ、イムラックらにこのいたずらを挟む余裕が生まれたのかもしれない。

内輪ネタ化

ツジモトは単なるドラフトのいたずらで終わらず、セイバーズファンの心に残った。内輪ネタとして広まっていったのだ。たとえばホームゲームで相手チームのワンサイドゲームとなるような状況だと、ファンたちはこぞって「タロウを出せー!」とチャントを上げた。さらに「タロウ曰く…」という文句に続けて自チームを鼓舞したり、相手チームを揶揄するような言葉を続ける横断幕を掲げるようなことも流行ったようだ。こうしたツジモトに関する内輪ネタは、ドラフト後も何年も続けられたという。

そして、今でもセイバーズのホームゲームでは「TSUJIMOTO」のジャージ38を着て応援するファンの姿を見ることができる。ジョシュアの孫ジョシュ・ツジモトもその一人だ。ツジモト家では、タロウの伝説が代々語り継がれており、ジャージもその記念品として父ポールから贈られたものだという。


以上が、1974年に開催された異常な形式のドラフトと、その中で生まれたいたずらツジモト・タロウの物語である。いかがだっただろうか。個人的には、WHAに対抗して考えられたこのドラフトの形式が、ことごとく全てツジモトを生みだして受容される下地になってしまったことに面白さを感じた。本文ではドラフト指名の国際化が要因と記載したが、それ以外にも要素はあったと思う。今回は以下三つの視点で考えてみたい。

  • GMたちの拘束時間の長さ
  • 最大25巡のドラフト
  • コミッショナーの負担

GMたちの拘束時間の長さ

イムラックがイラついた通り、とにかくこのドラフトは長かった。そして次の指名の電話がかかってくるまでとてつもない時間がかかることが確定していた。この時間を使って、存在しない選手を作ってしまおうと考えるには十分な長さだったのだろう。

最大25巡のドラフト

ツジモトが選出されたのは11巡目。普通のドラフトだと最下位に近く、逆に注目が集まる順位である。だが、この年は最大で25巡という超大型ドラフトであった。だからこそ通常では最下位指名のはずだが、中盤のちょっと気になる選手だよというアピールに収まってしまったように感じる。

コミッショナーの負担

そもそも、このドラフトはキャンベルへの負担が大きすぎる。初日は8時間かけて各GMたちとドラフトを実施したわけだが、逆に言えばこの時間キャンベルは電話をし続けたわけだ。間違いなく疲労は溜まっているはずだ。そんな中存在しない選手を見極められるか、というとまあ難しいだろう。

こうした状況の中ツジモト・タロウは指名選手として登録されてしまったのである。色んな要素が組みあがりつつも、こうして歴史に残るのは面白いな、と思う。

まとめ

こうして当時のドラフトの状況を見てみると、とてつもない混乱が発生していたことがよく分かる。一方で、うまく指名をできたチームは余裕があったのだろう。セイバーズは恐らく後者だった。だからこそ、「ツジモト・タロウ」という謎めいた選手を指名し、話題を集めることができたののだろう。個人的には、そう思う。


参考文献


注釈


  1. ナショナルホッケーリーグ。北米4大プロスポーツリーグの一つ 

  2. ワールドホッケーアソシエーション 

  3. NHLは20歳以上のアマチュア選手を獲得対象とした一方、WHAは17歳の選手にも契約を提示した。 

  4. ニューヨーク州バッファローを本拠地とするホッケーチーム 

  5. 日本アイスホッケーリーグ。現在はアジアリーグに統合されたため廃止 

  6. ライバルリーグのWHAが欧州選手にも積極起用したことがきっかけ 

  7. とはいえ指名順には思うところがあったらしく、スミスはゲアに「君はリーグの得点王として記憶されるだろう、そして俺はツジモトより先に指名された選手として記憶されるんだろうな」と言ったという。実際そうなっている感は否めない 

  8. 背番号はイムラックがでっちあげた13番と、ドラフト年の74番の二種類があるようだ 

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存在しない本が、禁書になった――ラジオリスナーが巻き起こした『I, Libertine』騒動

1956年、アメリカの書籍業界で発生した大混乱を、あなたはご存じだろうか? 全国の書店で、ある一冊の本に関する問い合わせや予約が殺到していたのだ。だがその本はいくら調べても、どのリストにも存在しない。いったい彼らは何を探し求めているのだろうか? 実は、この騒動はとある深夜ラジオが発案したいたずらであった。やがていたずらの規模は制御不能なものになり、なんと最後には存在しない本が発禁処分になるという異常事態が発生した。本コラムでは、ラジオパーソナリティジーン・シェパードが生み出した架空の書籍『I, Libertine』にまつわる騒動をご紹介しよう。


仕掛け人

本騒動の仕掛け人、ジーン・シェパード39は風刺の天才であり、優れたストーリーセラー40である。彼はそのトークを活かしてラジオパーソナリティのキャリアを始めるも、当初はラジオ放送局の経営陣とあまりそりが合わなかった。というのも、当時のラジオ業界は最新のヒット曲をかけ、雑談を最小限に抑えるという番組構成が主流だったため、彼のしゃべくりスタイルはマッチしなかったのだ。たとえ地元紙で「世界一の頭脳派ディスクジョッキー」と讃えられようとも、彼は一つのラジオ局に長居することができず、トレド、フィラデルフィア、シンシナティといった都市を転々とすることになる。

1955年、34歳になってニューヨークWOR41に雇われた彼には土曜午後の番組が割り当てられる。しかし、シェパードのスタイルはあまりリスナーに響かず、聴取率は良くなかった。そこで1956年1月、WORは彼の担当番組を平日深夜午前1時~5時30分の枠に変更する。おまけにニューヨークのスタジオを深夜営業するコストを渋ったため、ニュージャージー州カータレットの送信所での収録を強いられたのだ。

そこは窮屈で暑く、換気も悪いという劣悪な環境だったが、経営陣の目が届かないことは都合がよかった。おまけに番組は4時間半の長丁場。皮肉屋でおしゃべりのシェパードにとっては言いたい放題できる最高の状況である。そして彼のポップカルチャーの豆知識や鮮やかな語り口の巧みな展開を織り交ぜながらも、陰鬱で思索的な独白は午前2時のリスナーに熱烈に支持された。

ナイト・ピープル

番組のリスナーたちは「ナイト・ピープル」と呼ばれた。規則正しく夜寝て、昼に働く「デイ・ピープル」の対比というわけだ。「デイ・ピープル」たちは画一化された日常生活を送る堅物で、”正しくあること”を大切にする保守的な人物。対する「ナイト・ピープル」は行間の真実を探し求める、枠にとらわれない反権威的な人物で、世界を本当に動かしていたのは我々だ、というのだ。

シェパードは「まぎれもなく、私たちは世の中から外れたごくごくごく一握りの少数派だ」と連帯感を訴えた。そして彼は番組中、勝ち誇ったように「Excelsior!」と叫び42、そのあとすぐに「このバカめ……」と呟くのがおなじみだった。

ある日、シェパードは自分たちがメディアや広告業界にどれだけ踊らされているかを番組上で嘆く。例えば本一つとっても、メディアの評判次第だと。彼が語ったのは、自身が遭遇したこんなエピソードだった。

リストに支配された街

その日、ジーン・シェパードは怒り狂っていた。探していた書籍が書店になかったのだ。それも店員の態度が最悪だった。店内を探すこともせず、手元の刊行リストをちらりと見て「リストにありません。そんな本は存在しませんよ」などと言ってのけたのだ。彼は書籍の存在を確信していたにもかかわらず、店員の態度は変わることがなかった。

この件に限らず、インディアナ州ハモンド生まれのシェパードにとって、ニューヨークは不思議な街だった。

「週末はどこに行こう?」 「興行収入ベスト10に載っているあの映画を見に行こうか。」

「この本は面白いかな?」 「ベストセラーリストに載ってるんだから、面白いに決まってるさ」

一事が万事こんな感じで、ことあるごとに「ベスト10」、「リスト」が参照されているのだ。この街の「デイ・ピープル」たちはリストに執着し盲信していると、シェパードはそう感じ、驚いた。彼らは秩序に魅了され、リストを愛し、成功を掴むことに執着している。これらのリストは人間によって作成されていて、だからこそ作り手の偏見や恨みといったバイアスが反映され、不完全なものになりうるにもかかわらずだ。そして午前3時に起きている人は、そんな状況に内心疑念を抱いている……

その中でシェパードが最も腹を立てたのは、ニューヨーク・タイムズの書籍ベストセラーリストだった43。このリストの作成基準は単なる書籍売り上げだけにとどまらず、顧客からの要望や質問すら含まれており、書籍が売れていない場合でも、その問い合わせを十分に集めることでベストセラーリストに掲載されることがあるという。

シェパードは続ける。「明日の朝、私たち一人一人が書店に行き、存在しないとわかっている本を頼んだらどうなるだろう?」

『I, Libertine』

シェパードとリスナーたちは問い合わせる書籍の設定を詰めていった。タイトルは『I, Libertine』。日本語に訳すと『われ、色事師』といったところだろうか。内容は18世紀イングランド宮廷生活を舞台にした三部作の一作目だ。

また著者はイギリスの退役軍人で学者という設定のフレデリック・R・ユーイング。彼は妻のマージョリーとともにイギリスの田舎の邸宅に住んでいるという。

そして出版社はケンブリッジ出版局傘下のエクセルシオール44・プレス。もし、問い合わせた先の書店員が「ナイト・ピープル」ならば、「このバカめ……」と呟いて笑いが取れるというわけだ。

そして翌日、「ナイト・ピープル」たちが昼の舞台に解き放たれる――

書店の混乱

彼らは何百店という書店へと押し寄せ、『I, Libertine』について問い合わせた。当初は書店側もそんなものは存在しないと返答していたものの、2人、3人と問い合わせが続けば不安にもなる。書店員たちは互いに電話し、その本について知っているか、どこで入手できるのかを訪ねあった。

その本はどのリストにも載っていない。だがこれほど多くの人が多くの場所で求めているのだ。どこかにあるはずだ……

この問い合わせによるいたずらは、なんとアメリカ国内にとどまらなかった。どうやら旅客機の添乗員やパイロットにも生粋の「ナイト・ピープル」がいたようで、彼らはパリ・ローマといった渡航先の書店でも熱心に『I, Libertine』を問い合わせたという。

こうして順調に問い合わせを積み上げていったわけだが、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに載せるという計画は頓挫することになる45。リスナーの暴走により混乱が制御できなくなり、真実と虚構の区別がわからなくなってきたのだ。

書店にとどまらない混乱

あるリスナーによると、問い合わせの際、高慢ちきな書店員が「私はフレデリック・R・ユーイングはこれまでずっと正当な評価を受けていないと感じていたんだ」と答えたという。これだけならまだ書店内にとどまるちょっとした笑い話ですんだかもしれない。だが、この混乱はじわじわと書店の外へと独り歩きをしていくことになる。

別のリスナーによると、ある社交グループで『I, Libertine』のことを言及したところ、「その本を読んだことがある」と3人の女性が主張をし始め、好みの章について議論を始めたという。また、ある大学ではリスナーがユーイングについてをまとめた期末レポートを作成したところ、教授から激賞の言葉とともにB+の評価をもらったという。ニューヨーク・ポストのライターであるアール・ウィルソンはこの作家と昼食を共にしたとさえ主張していた。

このように、当初の目的だった書店を飛び出してリスナーたちが言及を始めた結果、「よくわからんが『I, Libertine』という本が存在するらしい」という認知が広まっていってしまったのだ。

最悪の出来事はボストンで起こった。大司教区で働いていたリスナーが「うっかり」『I, Libertine』を禁書リストに載せてしまったため、本書は存在しないのに禁書扱いになってしまったのだ。

種明かし

いたずらによる混乱は最高潮に達していた。シェパードはのちに「次は大統領がこれに言及するのでは」と当時の不安を明かした。「そうなったら、何も信じられなくなる!」

そんなとき、彼はウォール・ストリート・ジャーナルのカーター・ヘンダーソンから電話を受ける。「そろそろこの話を暴露すべき時ではないか?」と。こうして1956年8月1日、同紙夕刊一面にていたずらを暴露する記事が掲載された。これは1週間にわたる大ニュースとなり、記事はソ連の国営新聞プラウダにも一字一句そのまま掲載されたというから、当時の混乱のほどが伺える。

出版と騒動の収束

ただ、これだけ混乱が広まっているということは、裏返すとそれだけこの本にニーズがあるわけだ。ある日、編集者のイアン・バランタイン、小説家シオドア・スタージョン46、そしてシェパードの三人は昼食を共にしたことをきっかけに、バランタインはスタージョンに『I, Libertine』を実際に執筆することを依頼する。

シェパードが組んだプロットに沿う形でスタージョンは『I, Libertine』を清書し、ついに1956年9月13日にバランタイン・ブックスから同書は発売された。内容はランス・コートニーを名乗る野心家の物語で、その大部分は本コラムでも紹介したあのエリザベス・チャドリーの生涯に基づいたものであった。

フランク・ケリー・フリークスによる表紙には酒場の看板「Fish and Staff」として羊飼い(Shepherd=シェパード)の杖とチョウザメ(Sturgeon=スタージョン)が描かれ、真の著者がほのめかされている。裏表紙にはシェパード扮するユーイングが、何とも言えないさえない表情で著者近影として写されており、「ナイト・ピープル」が手に取ればにんまりできる外見だったというわけだ。もちろん、おなじみのフレーズ”Excelsior!”も表紙に描かれていた。

『I, Libertine』の出版は、ある種騒動の収束に役立った。つまり、混乱していた各メディアたちは、このいたずらが単なる安っぽい宣伝活動に過ぎなかった、本を売るためだったと片付けることができたからだ。実際のところ、書籍販売による収益はすべて慈善団体に寄付されたものの、例えばUPI通信ではシェパードの行動には営利目的があると強く示唆していた。


以上が架空の書籍として生み出され、大混乱を巻き起こした末に実際に出版された『I, Libertine』の物語である。いかがだっただろうか。個人的には、よくこの程度の混乱で済んだな、という感想を抱いた。というのも、騒動のきっかけを要約する47と、こうなるからだ。

ジーン・シェパードというインフルエンサーが「ナイト・ピープル」と「デイ・ピープル」という対立構造を煽り、ラジオというネットワークサービスを通じて『I, Libertine』というデマを扇動した

2020年代に生きる我々なら、これがまさに現在ネット上で問題になっている社会現象と構造的に似通っていることに気が付くだろう。そして現代では、こうした問題は時に刑事事件にまで発展していることも。アメリカ中で迷惑を巻き起こした騒動ではあったが、だれも物理的に傷つかなかった48のは、幸いだったと思う。

しかし、ある意味シェパードがいう通り「ナイト・ピープル」が世界を動かしたこの騒動だが、「書店に問い合わせる」という画一的な方法で実現したのは、なんとも言えない皮肉さを感じる。

最後にシェパード本人の言葉を引用して、本コラムを締めようと思う。

人は、一歩踏み出して自分で考えることを心から恐れている

ジーン・シェパード


参考文献

注釈


  1. 同名の女性カントリー歌手がいるが別人 

  2. 最高のクリスマス映画の1つと称されることもある1983年のアメリカのコメディ映画『クリスマス・ストーリー』の原作者でもある 

  3. AMラジオ局 

  4. 「夜の仲間たちよ、前へ!」といったニュアンスで用いられた 

  5. 現代でもデータ解釈方法は公開されておらず、その権威に対して選定方法には不透明な部分があると批判されることがある 

  6. Excelsior! 

  7. シェパードは「実際にベストセラーリストに載った」と主張するも、事実として確認はできていない 

  8. 当時カルト的人気があった、”文学性”を持ち込むことで50年代のSF観を揺さぶった作家。今でもファンは多い 

  9. 現代観点で見た作為的な要約ではある 

  10. 社会的に傷ついた人はまあまあいる気がする

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貴族を自称した正真正銘の貴族――”二重に高貴な被告”エリザベス・チャドリー

1776年4月、前年に勃発したアメリカ独立戦争の最中、イングランドの貴族院では戦争そっちのけである一つの裁判の行方に注目が集まっていた。被告人はかつて社交界で名を馳せた美女。彼女に突きつけられた罪状は「重婚」。貴族にとって政治的にも経済的にも重要な戦略の一つである”婚姻”だが、なんと彼女は伯爵と公爵という二人の貴族と婚姻関係にある、と訴えられているのだ。本コラムではイングランド史上唯一、貴族として重婚の罪で裁かれ、その後もふてぶてしく”公爵夫人”を自称し続けたエリザベス・チャドリーのハチャメチャな人生をご紹介しよう。


幼少期

エリザベスは1720年、デヴォンシャー州にて生まれた。彼女の父はチェルシー病院の副総督トーマス・チャドリー大佐、母はドセットシャー州チャルミントン生まれのハリエットである。小規模ながら名誉ある地主階級の娘として生まれたものの、南海泡沫事件49の影響で財産のほとんどを失い、さらに1726年に父が亡くなるという不幸に見舞われる。

こうして幼少期は田舎で恵まれない生活を余儀なくされたエリザベスだったが、彼女には一つ大きな特徴があった。とてつもない美少女だったのだ。15歳のころ天然痘にかかるも、幸いなことにその美貌は失われず50に成人する。この頃、のちにバース伯となる政治家のウィリアム・パルトニーに目を掛けられ、1740年にロンドンへと移住する。彼との関係はプラトニックなものではなく、どうやらその後何人もの貴族との浮名を流すことになるエリザベスの”コレクション”の最初の一人だったようだ。彼の助力もあり、1743年にオーガスタ王太子妃の侍女に任命される。エリザベスの宮廷デビューである。

最初の結婚

当時の宮廷はゴシップと恋愛沙汰が渦巻く魔境。そんな中でエリザベスは早速一人の貴族に見初められる。第6代ハミルトン公ジェームスである。彼は1743年、エリザベスにプロポーズする。だがタイミングが悪かった。彼はグランドツアー51の真っ最中であり、基本的にイングランドを離れていたのだ。ツアーの完遂まで待つようエリザベスに頼むものの、ライバルが現れてしまう。それが、当時陸軍中尉だった初代ブリストル伯の孫オーガスタス・ジョン・ハーヴィーである。

ウィンチェスター競馬場にて出会ったエリザベスとハーヴィーは激しく恋に落ちる。彼は当時所属していたコーンウォール号の軍務を休み、エリザベスに求婚する。しかし二人は金銭的に余裕がなく、彼女は侍女の地位を失う52わけにはいけなかった。そこで、1744年8月4日、レインストンの教区外礼拝堂にて、アミス牧師のもと夜中にひっそりと婚姻を結んだ。

出産と破局

数日後、ハーヴィーはコーンウォール号に戻って西インド諸島へと向かってしまい、イングランドに帰国したのは1746年のことだった。エリザベスは翌年夏に宮廷を休んでチェルシーに移り、秘密裏のもと男子を出産する。1747年11月2日に洗礼を受け、ヘンリー・オーガスタスと名付けられたその子は、残念ながら長くは生きられず、ほどなくして亡くなってしまった。

ハーヴィーがイングランドに戻った後から、エリザベスとの仲は急速に悪くなっていた。それはハーヴィーが海に繰り出していた期間のエリザベスの宮廷での振る舞いが原因かもしれない。エリザベスのトークは機知に富んでおり、社交界の花形として名を馳せ、同時に数多くの著名な廷臣53たちと浮名を繰り広げていた。要はめちゃくちゃ浮気していたのだ。結局、息子の出産と死亡後はエリザベスとハーヴィーの夫婦仲は完全に破綻してしまった。

記録改竄

以来エリザベスとハーヴィーの仲は完全に終わったものとなったのだが、1759年に転機が訪れる。ハーヴィーの兄ブリストル伯が病床にあり、彼には子供がいないためハーヴィーが伯爵位を継ぐ可能性が高くなったのだ。もしそうなればエリザベスは伯爵夫人となり、巨額の財産を得ることができる。

ところが秘密裏に婚姻を結んだことから、自分が伯爵夫人であるという証拠が乏しい。そこでエリザベスは考えた。なければ作ればいい。2月の初め、エリザベスはウィンチェスターに赴き、瀕死になっていたアミス牧師の枕元にてレインストン礼拝堂の婚姻記録簿の記録を改竄した。記録は叔父のジョン・メリルが管理することとなったという。

本命

こうしていつでも「私は伯爵夫人である」と名乗り出ることができる準備を進めていたエリザベスだが、これはあくまでもスペア。本命は別にあった。それが公爵夫人の座である。1750年ごろからエリザベスはキングストン公爵エヴリン・ピアポントと恋人関係にあったのだ。血筋もよく、広大な領地と莫大な収入を持つ彼は寛大で、エリザベスが数多の男性と浮気を繰り返しても彼女を愛し続けていた。

特に1760年6月4日のウェールズ公の誕生日を祝う舞踏会を開催したことで、二人の関係は広く知れ渡ることとなった。彼女の催すパーティーはロンドンで最も洗練されたファッショナブルなものであり、海外の各国の大使たちもしばしば訪れるほどだったという。

一度、キングストン公爵との仲が危うくなったことがある。それが1764年のことで、彼が浮気をしたのだ。エリザベスは当てつけのように1765年に一人ドーヴァー海峡を渡った。ベルリンではフリードリヒ二世の宮廷舞踏会でワイン二本を開けて酔っ払い、床に倒れそうになるという醜態を見せる54など、荒れた様子を見せている。結局、公爵側の懇願により、エリザベスはイングランドに戻り復縁することになった。

独身宣言と二度目の結婚

ハーヴィーとエリザベスの婚姻関係は本当に面倒くさいことになってしまった。どちらも別の恋人55と婚姻したかったのに、中途半端な婚姻状況が障壁になってしまったのだ。そこで、二人は共謀してある訴訟を起こす。それが、”ハーヴィーがエリザベスと結婚していると吹聴しているがそれは虚偽だ”というジャクティテーション訴訟56である。

結局、この試みはエリザベスにとっては57成功に終わり1769年2月11日、彼女は独身でありいかなる婚姻関係も締結されていないと判断が下された。これにより同年3月8日、エリザベスはついに特別許可のもと”公爵夫人”としてキングストン公爵との婚姻を結ぶことに成功したのである。

公爵の死と相続権

彼女のキングストン公爵との結婚は国王や政府高官から正式に祝福された。ただその夫婦生活は長く続かなかった。1773年9月23日にキングストン公爵が亡くなってしまったのだ。そして1770年に生前作成された遺言状にもとづき、エリザベスは彼の財産のすべてを相続すると定められていた。

ここで待ったをかけたのが公爵の甥のエヴリン・メドウズである。彼は公爵と死の直前に不和となってしまい、遺言では全く相続の見込みが立たなくなってしまっていた。だからこそ遺言をひっくり返すべく、最強のスキャンダルを法曹に持ち込んだ。つまりエリザベスはそもそもハーヴィーと結婚している状態で公爵と結婚した。彼女は”重婚”という重い罪を犯しており、こんな遺言は全部無効だ、というものだ。

エリザベスは当時ヨーロッパ各地を訪問中。だがこの知らせを受けてイングランドへと緊急帰国したという。弁護費用を稼ぐためにローマでピストルを使い、金や宝石を集めたというから驚きだ。

裁判での争い

1775年12月、エリザベスは1769年の判決を根拠として、訴追取り下げを求めたものの訴えは取り下げられた。裁判は貴族院ウェストミンスター・ホールにて1776年4月に始まった。かつての社交界の花形であるエリザベスの醜聞は当時相当興味を集めたようで、なんと4000もの人が詰めかけたという。

裁判は一週間程度続き、その過程で以下が証明された。

  • ハーヴィーとの結婚
  • 子供の誕生
  • 1759年の改竄記録

これによりエリザベスが重婚であるという有罪判決が、貴族院議員119人全員のもと全会一致で下された。

しかし、ハーヴィーとの婚約を行っていたことはある意味で彼女を救った。彼は裁判前年の1775年3月20日、兄の死去によりブリストル伯を受け継いでおり、エリザベスは公的には伯爵夫人となっていたのだ。これにより、彼女は焼印といった一生消えない刑罰58を免れた。

イングランド脱出

こうして罪人となってしまったエリザベスだが、そもそもの発端は遺産問題である。エヴリンはこの後自身を拘束し、遺産を手に入れるよう画策するだろう。身動きできないような処置も取るかもしれない。そう考えたエリザベスは即座に自宅で大勢の友人や支持者を招いて盛大な晩餐会を開いた。外面的には「まあなんかあったけど解放されましたわ」と油断しまくっていると見られるパーティーを催したわけだ。

これによりエヴリンを欺きつつ、その間にエリザベスは持てるだけの資産を持ってフランスへと逃亡を果たす。その日がまさにエリザベスの出国禁止令が発令された当日。本当にギリギリのタイミングであった。

その後

イングランドを離れた彼女は、その後もふてぶてしく”キングストン公爵夫人”を自称してヨーロッパ各地を渡り歩いた。実際に”公爵夫人”として扱われることも多かったらしく、特にローマでは教皇クレメンス十四世と、ロシアではエカチェリーナ二世と謁見する59機会まで設けられたという。

詐称であることが確定しているにもかかわらず、各地で”公爵夫人”としてもてなしを受けていたのは不思議だ。この辺りはイギリス貴族界でのし上がった実力の賜物といったところだろうか60

1788年8月26日、エリザベスはパリにて死去する。68歳であった。


以上が、”二重に高貴な被告”エリザベス・チャドリーの物語である。いかがだっただろうか。個人的には、彼女の異常なほどの悪運の強さに面白さを感じた。本コラムで紹介したエピソードだけでもこれだけあるのである。

  • 天然痘にかかるが、容姿に影響がなかったこと
  • 重婚の罪が確定するも、前年に伯爵夫人となっていたことで庶民の罰は受けなくて済んだこと
  • 出国禁止令が発令されるも、当日逃げおおせたこと
  • “公爵夫人”の自称が公になるも、他国では公爵夫人として扱われ続けたこと

さて、このエリザベスであるが、残念ながら後世の評価はあまり良くない。重婚の罪人なんだから当然といえば当然なのだが、それにしても辛辣な評価が多い。例えば1885年に発行された『英国人名辞典』では

彼女はきわめて粗野で、価値のない者たちに取り巻かれ、自分に甘くて気まぐれであり、その性格は完全に軽蔑されてもおかしくなかった

と、もうボロクソに言われている。そのあとに

“天性の寛大さ” があったために、完全には見放されなかった

と続くも、全然フォローになっていない。

ただし、これは時代背景も考えるべきだろう。彼女が生きた18世紀はいい意味でも悪い意味でもおおらかな時代だった。ところが亡くなった後の19世紀に倫理感がガラッと変わり、道徳、規範に厳格で禁欲的な時代が訪れたのだ。この価値観で考えると、確かにエリザベスはとてつもない悪女に見えることだろう。

また、現代のジェンダー論的立場で彼女を見ると、時代に翻弄された被害者、と見ることができるかもしれない(あまり詳しくないので浅い考察しかできないが)。

しかし、彼女の計算高いのか刹那的なのかよくわからない行動を追ってみると、案外全力で楽しく18世紀という時代を生き抜いてたんじゃないかな、という楽観的な推測もできる。

様々な見方ができるものの、これだけは確かだろう。エリザベス・チャドリーは、ハチャメチャな人生を送った


参考文献

注釈


  1. 1720年にイングランドで起きた、南海会社の株価暴騰と崩壊事件 

  2. 罹患すると「あばた」と呼ばれる痕跡が顔や体に一生残る可能性が高く、容姿を損なう原因となることが多かった 

  3. 数年間ヨーロッパを周遊する貴族の教育旅行 

  4. 未婚の女性であることが侍女の条件だった 

  5. 流石に不倫関係にあったわけではないようだが、当時の国王ジョージ二世も彼女を気にかけ、時計や農場を贈ったりしているほどである 

  6. よほど酷かったのか、フリードリヒ二世からザクセン選帝侯未亡人に宛てた手紙の中にも記されている 

  7. ハーヴィー側が結婚したかったのは元画家でモデルのメアリー・ネスビットだという 

  8. 「自分は誰々と結婚している」という主張は事実ではないと訴える裁判 

  9. ハーヴィーの独身は証明されず、結局彼は本命と結ばれず生涯を終えた 

  10. 重婚の刑罰は庶民と貴族で異なっており、庶民の場合は鞭打ちや焼印といった重い罰が下されていた 

  11. 特にエカチェリーナ二世の配慮には感動したようで、サンクトペテルブルグに広大な土地を購入したようだ 

  12. あるいは、彼女がイギリスから持ち出したキングストン公爵の莫大な遺産の賜物かもしれない 

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北極圏での南国トロピカルフルーツづくり――アイスランドのバナナ生産

南国のトロピカルフルーツ、バナナ。あなたはこの果物を生産している国の中で、最も北側に位置している国はどこかご存じだろうか。広大な中国やアメリカだろうか? あるいはスペイン、イタリアといった、ヨーロッパの比較的温暖な国? 実は、縦に長い日本だったり? 残念ながらどれも不正解である。正解は、北極圏の国アイスランド。名前からして非常に寒そうで、実際非常に寒冷な国だが、実はかの国では半世紀以上もの間バナナを生産し続けており、過去には国内流通までしていた歴史があるという。いったいどのようにしてこの土地でトロピカルフルーツ生産を実現しているのだろうか? 本コラムでは、凍える大地アイスランドで行われる、”地の利”を活かしたバナナ生産についてをご紹介しよう。


火と氷の国

アイスランドはその名前から、”氷”属性のイメージが非常に強いと思う。実際、国土の12パーセントを氷河が占める「氷の国」である。しかし、その地理的特性を考えると、もう一つの属性が浮かび上がってくる。それが”火”だ。アイスランドは実は火山大国であり、国内には200を超える火山があり、豊かな火山環境を利用した地熱による暖房設備が充実している。そして、アイスランドではこの「火と氷」を地熱発電、水力発電という形でエネルギーに変換し、国内の電力需要をすべて賄ってきているのである61

100パーセント自然の力で生み出されるためか、アイスランドでは電力料金が非常に安い62。そのため、精錬に多大な電力が必要となるアルミニウムの一大拠点となっており、オーストラリアからわざわざ原材料であるボーキサイトが送られてくることもあるという。現地の電力料金で精錬するよりも、地球の裏側に送る輸送と安い電力料金で精錬する方がコストが抑えられるというのだから驚きだ。

そしてアイスランドは、この豊かな地熱暖房と安い電気料金を、農業にフル活用している。それが、温室による農作物栽培だ。

アイスランドでの温室農業の歴史

アイスランドにおける地熱を利用した農業の歴史は、19世紀以前までさかのぼる。当時は”温室”といった設備は設けず、地熱で暖められた土壌を利用することで、ジャガイモや穀物といった作物の栽培期間を延ばしていたという。とはいえ、厳しい寒さから完全に逃れられるわけもなく、数か月の延長に過ぎなかったらしい。転機が訪れたのは1924年、初めて地熱を利用した温室が建設されたのだ。これにより、天候や風、寒冷の遮断が可能となり、季節が限定されていた農作物の通年栽培が可能になるというブレイクスルーを達成する。

20世紀後半になるとガラス温室、自動灌水システムといった技術躍進を果たすようになる。これによりトマト、キュウリ、レタスといった作物の種類が急増し、収穫量・品質も安定するようになった。アイスランドにおける食料システムの一部に温室農業が組み込まれるようになったのである。

現在、18.6ヘクタールという広大な面積6364にまで成長した温室農業は、再生可能エネルギーを活かした持続可能事業として、アイスランドの政策・補助金・貿易制度と密接に結びついた戦略的産業へと発展している。完全な自給は難しいにしても、トマトは国内市場の約2/3、キュウリに至ってはほぼ100%国産と、特定品目に関しては高い自給率を達成しているのである。また、「地元産食品」に対する評価の高まりから、多くの消費者は多少高くても国産の農作物を購入する傾向にあるという。

少し固い話になってしまったが、以上がアイスランドでの温室農業のざっくりとした歴史である。こうした背景のもと、バナナも温室にて栽培されているというわけだ。次の章では、いつ頃バナナがアイスランドに導入され、生産にこぎつけたのかを紹介しよう。

アイスランドでのバナナ栽培

アイスランドにバナナが導入されたのは、なんと1939年のことである。この年の7月にフリン・エイリクスドッティルという女性がイギリスからバナナを持ち込んだことが、すべての始まりだった。彼女はレイキャビクにある温室園芸施設でバナナを育てはじめ、1941年には熟した最初のバナナを生み出すことに成功する。以後、バナナの試験栽培は本格化していく。

当時のアイスランドは先述した通り温室による農業のブレイクスルーを果たしたばかり。バナナ栽培にも期待が込められており、当時の教科書には「アイスランドは将来バナナ大国になるかもしれない」と書かれていたほどだ。実際、第二次世界大戦後には輸入果物の高価格化も相まり、アイスランド産のバナナが国内流通していたという。アイスランドのバナナは商業ラインに載っていた時代があったのだ。

ところが、1960年に果物の輸入関税が撤廃されると、国産バナナ市場は崩壊する。輸入バナナの圧倒的な安さに太刀打ちができなかったのだ。最初のバナナが1939年に導入され、1941年に熟したことからわかる通り、アイスランドの温室でバナナが成熟するのには1.5年~2年という歳月が必要となる。一方で中南米やアフリカといった主要なバナナ産地では、わずか数か月でバナナが完熟する。おまけに、北極圏という土地柄ゆえ、冬は極端に日照が少なく、人工照明に頼らざるを得ない。いくらアイスランドの電力量が圧倒的に安いといっても、アルミニウムと違って赤道直下の国々にアドバンテージは取れなかった。なぜならばかの国々でバナナを育てている光は太陽、つまりコストがゼロなのである。

こうして商品としてのアイスランド産バナナはたった10年ほどで幕を閉じた。現在はレイキールにあるアイスランド農業大学のオフィスにて、1942年にバナナ農家から寄贈されたものが研究用に栽培されているのみ65である。

都市伝説

さて、アイスランドでのバナナ栽培は長年にわたって研究が続けられているものの、市場への流通は失敗という形で終わっている。しかし、アイスランド国内外で、「アイスランドはヨーロッパ最大のバナナ生産国である」という奇妙なうわさがまことしやかに語られているという。

実際のところ、ヨーロッパ最大のバナナ生産国はスペインやフランスである66。ではなぜこういったうわさが広まっているかというと、イギリスBBCの番組「QI」67で取り上げた、「ヨーロッパ最大のバナナ産地がアイスランドである」というジョークが独り歩きした結果らしい。特に当事者であるはずのアイスランド国内でこのうわさが広まっているのは、半世紀前には実際に国内流通し、教科書の未来予測にも書かれていたことが原因のようだ。

ちなみに、現在も栽培を続けているアイスランド農業大学で作られたバナナは、政府資金で運営されていることから、販売は禁止されているとのこと。近年トレンドとなっているエモ消費68の観点でいうと、「二年の歳月をかけて作り上げられた北極圏のバナナ」なんて最高にウケそうな気がするだけに、少し残念に思うのは私だけだろうか。


以上が、商業的には失敗したものの、地の利を生かして今も生産を続けるアイスランドのバナナの物語である。いかがだっただろうか。個人的には、コスト競争で地球の裏側と争い、アルミニウム精錬では勝ち、バナナ生産では負けたという対比が非常に面白いなと感じた。

また、調べていて感じたのが、アイスランドにおける温室農業という形態に対して強いアイデンティティや誇りをもっていそうだということ。結びで紹介した都市伝説がアイスランド国内でも広がっている根底には、「北極圏でも農業はできる」という強いプライドがあるのかもしれない。実際、アイスランド農業大学の温室は4月にオープンデーを開催しているそうだが、その日には5000人もの来客があるのだという。

本コラムの締めとして、アイスランド農業大学の温室マネージャーが”The Reykjavík Grapevine”のインタビューで語った、温室農業に対する強い誇りを感じる印象的な一言を引用する。

ガラスの下で育てられるものなら何でも育てられる。

エリアス・オスカルソン


参考文献

注釈


  1. 水力発電が約70%、地熱発電が約30% 

  2. なんと日本の電力料金の1/3という安さである 

  3. 東京ドーム約4個分 

  4. 鑑賞植物等の栽培面積も含めた数値。野菜のみだと約9.7ヘクタール 

  5. 栽培されたバナナは年間およそ100房ほどで、すべて学内で消費されている 

  6. カナリア諸島、マルティニークといったアフリカ、中央アメリカ圏内にある海外領土での生産。生産拠点が海外圏であることから、「ヨーロッパ圏内ではアイスランドが最大の生産国だ」という主張もある 

  7. コメディクイズ番組 

  8. 商品やサービスが持つストーリー性を動機とする消費活動 

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「お菓子の家」の発掘!?――1963年ドイツの『ヘンゼルとグレーテルの真相』騒動

あなたは「グリム童話が実は残酷で恐ろしい」という噂を見聞きしたことがあるだろうか。ディズニーアニメや絵本では平和に描かれている童話たちが、実は残酷な描写や性的でドロドロとしたシーンにまみれている、というものだ。結論から言うと、これは一部事実で一部誤りといったところ。確かにグリム童話は古い言い伝えの編纂物であることから、現代の感覚では残酷と思える描写は確かにある。しかし、「性的でドロドロとしたシーン」という部分は誤りである。これは1998年に出版された『本当は恐ろしいグリム童話69というグリム童話の二次創作が大ヒットした影響で植え付けられたイメージで、こうした印象は日本独自のものといえるだろう。

日本で誤った認識を植え付ける結果となってしまった『本当は恐ろしいグリム童話』だが、本書が出版される35年前、グリム童話の本家本元であるドイツでも、「『ヘンゼルとグレーテル』には残酷な真実が隠されている」という本が出版され、大混乱を巻き起こしたことはご存じだろうか。本コラムでは、1963年ドイツで出版され物議をかもした書籍『ヘンゼルとグレーテルの真相』をご紹介しよう。


『ヘンゼルとグレーテル』あらすじ

早速本題に、といきたいところだが、「そもそも『ヘンゼルとグレーテル』ってどんな話だったっけ」という人も多いのではないだろうか。そこで、まずは『ヘンゼルとグレーテル』の簡単なあらすじを記そう。なお、今回のコラムにあまり関係がない描写は省略している。

第一章

あるところに木こりの夫婦がいた。夫婦の間にはヘンゼルという男の子と、グレーテルという女の子がおり、彼ら4人は貧しく暮らしていたが、国内で発生した大飢饉で食べるのにも困るような状況に陥ってしまった。

このままでは一家全員が飢え死にしてしまう。そう考えた母親はある日の夜、子供たちを森の中に置き去りにすることを父親に提案。渋る父親を押し切り、翌日実行することを決断する。

この会話を偶然聞いてしまったヘンゼルは、両親が寝静まったことを見計らい、白い小石をポケット一杯に隠しいれる。

翌日朝早くから森に連れ出されるヘンゼルとグレーテルだったが、ヘンゼルは道すがら小石を地面に落としていく。そして計画通り二人は森に置き去りにされてしまったのだが、月の光に照らされた小石を頼りに帰宅に成功する。

母親は、明日は森のより深くに連れ込んで、帰れないようにすることを計画する。一方でヘンゼルは同じように小石を拾おうとするが、ドアが施錠されてしまっていたために失敗してしまう。

翌朝再び森に連れ出されるヘンゼルとグレーテル。小石は持っていないヘンゼルだが、食料として渡されたパンを地面に落とすことで目印を残そうとする。

またも置き去りにされてしまった後、目印のパンをたどろうとしたが、鳥たちが食べてしまっており、帰れなくなってしまった。

第二章

森で遭難して3日後、白いきれいな鳥に導かれ、レープクーヘン70の壁、お菓子の屋根、透き通った砂糖の窓でできた家を見つける。

二人が家のお菓子を食べていると、中から年を取ったおばあさんが出てくる。二人を家に連れ込み優しく振舞う彼女だったが、その正体は二人を殺して食べてしまおうと考える悪い魔女であった。

翌朝、魔女は眠っているヘンゼルを小さな小屋に連れ込み監禁し、グレーテルを脅してこき使うようになる。

まずはヘンゼルを食べてしまおうと考えた魔女は、グレーテルにかまどの中へ入って火加減を見るように命じる。グレーテルは「やり方がわからない」と騙り、お手本を見せるようにかまどの中に首を突っ込んだ魔女の背中を突き飛ばし、そのまま魔女を焼き殺してしまう。

グレーテルはヘンゼルを助け出し、宝石などを手にして帰路に就く。カモの手助けによって川渡りをして森の中を進んでいくと、見覚えのある道へとたどり着く。

ついに我が家を見つけたヘンゼルとグレーテルが中に入ると、父親が待ち構えていた。いつの間にか母親は死んでおり、魔女の家から持ち帰った宝石で親子三人は仲良く過ごすことができたという。

1963年、ドイツでの騒動

以上が『ヘンゼルとグレーテル』の簡単なあらすじである。この童話の魅力は、なんといってもお菓子でできた家だろう。飢饉による子捨てや、魔女によるカニバリズムといった残酷でリアリティのある描写の中で、ファンタジーさが際立っている。こうしたギャップのためか、「『ヘンゼルとグレーテル』の詳細は知らないが、お菓子の家が出てくることは知っている」という人は多いように思う。

さて、この『ヘンゼルとグレーテル』だが、折しもヤーコプ・グリム71の没後100年目となる1963年に、とんでもない本が出版される。ユーモア作家、ハンス・トラクスラーが著した『ヘンゼルとグレーテルの真相』という本である。

この本では、アマチュア考古学者のゲオルク・オセックという人物がシュペッサートの森72にて、『ヘンゼルとグレーテル』の「魔女の家」を発掘し、さらにはこの童話に隠された歴史を解き明かしたと記されている。

なんと、ヘンゼルとグレーテルは17世紀半ばに実在した人物がモデルで、物語の元となる出来事が起こった当時、成人していたというのだ。彼らは、才能ある菓子職人である「魔女」が隠し持つレープクーヘンのレシピを得るために、彼女を殺害したのだという。

この本には、問題のレシピの複製や「魔女の家」の考古学的証拠写真、さらには化学分析の様子までもが掲載されていた。

出版後、ドイツでは東でも西でも73大騒動となった。1963年11月、西ドイツではタブロイド紙「アーベント新聞」が、東ドイツでは国営紙「ベルリナー新聞」が本書を取り上げ、瞬く間に全国ニュースとしてドイツ国内に広まった。

出版社には問い合わせが殺到。当然発掘者であるオセックにも、文化事務所から公演依頼が舞い込むなどの呼びかけがあった。しかし、彼がそれらに応じることはなかった。――ゲオルク・オセッグなどという男は存在しなかったからだ。すべては、トラクスラーの創造の産物だったのだ。

トラクスラーによるいたずら

本書の著者、ハンス・トラクスラーは皮肉屋で知られ、反権威主義的な雑誌「パルドン」にて文章やイラストのパロディーで世の中を風刺することを得意としていた。

1963年の初頭、C・W・ツェーラムの『神々、墓、学者』74を読み、考古学のロマンに影響を受けた彼は、このネタでパロディーを作ってやることを決意。ちょうどその年はヤーコプ・グリムの没後100周年であることから、最も有名なグリム童話の一話『ヘンゼルとグレーテル』を「発掘」しようと考える。

最初の原稿は数週間で出来上がり、その後ディティールを詰めるため、ジャンヌ・ダルクの裁判記録や、低地バイエルン地方の魔女裁判の記録などを参照。さらにはカッセルにあるグリム兄弟の博物館に赴き、館長であるデーネッケ博士にもお世話になりながら75、たくさんの資料を閲覧したという。

もちろんパロディーであることの匂わせも忘れてはいない。注釈・参照先は架空のものだらけだし、「発掘」した秘密のレープクーヘンのレシピはドクターオツカー76の料理本から拝借したものだ。「証拠写真」には息子や娘のおもちゃを使用したりもしている。トラクスラー自身が扮したオセックも、コロンボ刑事風の古いコート、皮の帽子、ニッケルの眼鏡、ちょび髭といったコミカルな姿で写真に写っている。

こうして約6週間にわたって作られたパロディー本だが、ドイツ国内ではあたかも「真実」のように許容されてしまった。どういうわけなのだろうか。次の章からは、本書の内容をかいつまんで紹介していこう。

ゲオルク・オセック

まずは本書の「探偵役」となるゲオルク・オセックの設定から。彼は1919年5月21日にプラハで生まれた。11歳の誕生日に祖父母からのプレゼントでグリム童話に興味を持ち、なんとその歳にして童話『おいしいおかゆ』77の再現検証を行ったという。ボヤ騒ぎを起こしただけで終わったわけだが、少年時代から知的探求心に溢れている様子がうかがえる。

そして1932年、オセックは中等教育機関のギムナジウムにて考古学者シュリーマン78の伝記と出会い、考古学に魅了されることになる。

その後教員となったオセックは、1945年1月に戦火を逃れるためバイエルン州アシャッフェンブルク周辺に生徒たちと疎開する。疎開先でお世話になっている農夫と会話したところ、なんとこの土地にあるシュペッサート森を彼らは代々「魔女の森」と呼んでおり、森の奥には「魔女の家」があるというのだ。おまけに、農夫の祖父は実際に「魔女の家」を見たことがあるという。

幼き頃のグリム童話への興味と考古学への憧れ。彼は「魔女の家」の発掘を夢見るが、当時はその直後に終戦となってしまったため、街に帰ることとなった。

転機が訪れたのは1962年の初めである。オセックはアシャッフェンブルクにあるギムナジウムへの転勤が決まったのだ。こうして彼は、かねてからの夢であった「魔女の家」の発掘に挑むようになる。

木こりの家跡地を発見

1962年5月10日、オセックがシュペッサートの森深くに立ち寄った際、既視感のある道を発見する。なんとその道は、グリム童話初版所刷本に描かれていた挿絵と不思議なほど一致しているのだ。この本はグリム兄弟が存命していた時期に出版されていることから、まさにこの道をモデルに、『ヘンゼルとグレーテル』の1シーンは作られたのだと彼は考えた。

翌日、この道を頼りにオセックは東に向かい、住居の跡地とみられる個所を発見する。そこにはフランクフルトとヴュルツブルクを結ぶ高速道路が敷かれていた。

この地に住居があった証拠は裁判記録に残されていた。ゲオルク・シャイトハウアーという人物が連邦高速道路管理局に対して訴訟を起こし敗訴、住居と土地を売却したというのだ。おそらくこのゲオルク氏こそ、『ヘンゼルとグレーテル』に出てくる木こりの家の最終所有者なのだろう。

ついにオセックは物語のスタート地点を発見した。次は二人が置き去りにされた地点を探すべきだろう。手掛かりは「白い小石」である。

驚きの事実と疑惑

オセックは近所に住んでいる8歳くらいの子供に協力を依頼し、木こりの家の跡地に連れてきた。そして彼に硬貨くらいの大きさの小石をズボンのポケット一杯になるまで持たせ、小石を見失わないような間隔で落としながら西の方角79に歩かせるという実験を行った。結果は失敗。物語のように焚火を炊けるような広場を見つけることができなかった。

しかし、試しにオセック自身が同じ方法で歩いてみたところ、不思議なことにそれらしい広場が見つかったのである。彼の魔法によるものだろうか? 単純な物理の問題である。子供の背だと小石を見失うまでの距離は短い。一方成人したオセックの身長ならば、その距離は長くなる。要は実験に協力した子供がたどり着いた地点よりも、さらに西側に歩けば該当の土地があったというだけの話である。

だけの話なのだが、問題は本編のある一点が否定されることになる。ヘンゼルが子供だとこの物語は成り立たないことが証明されてしまったのだ。つまり、当時ヘンゼルは成人していた、ということになる。

その後、1か月にわたる地道な調査80により6月10日に魔女の家の跡地とみられる遺跡を発見。5日間の発掘調査の結果、かまどの跡地にて、遺骨が見つかったのである!

そして、家の壁を発掘している最中、小さな長四角形の箱を発見する。その箱の中にはレープクーヘンの欠片とケーキ用の道具、手書きのレシピが入っていた。

一方、ヘンゼルが監禁させられたという小屋は、不思議なことに痕跡が見当たらない。また、玄関には無理やり破壊されたとみられる蝶番が発見された。

ヘンゼルは子供ではなかったし監禁もされていなかった。かまどには死体が放り込まれていた。壁の中に隠された箱があった。そして、玄関のカギは無理やり破壊させられていた―― どうも、きな臭い様子が漂ってきている。

犯罪の痕跡

その後、オセックは遺骨についてライデン大学人類学研究所のアルベルト・フェアモイレン教授に詳細調査を依頼する。調査結果は驚くべきものであった。なんと、遺骨の主は没時年齢が推定30歳前後の女性であり、さらに死因は焼死ではないという。

ここでも本編の描写と食い違いが生じているわけだ。もはやきな臭いどころではない。オセックははっきりと犯罪の痕跡を指摘する。これらが事実であるならば、ヘンゼルはグレーテルと共謀して妙齢の魔女の家に押し入り彼女を殺し、かまどで隠蔽を図ったのだ!

では、なぜ彼らは魔女を殺したのか。本編にある通り宝石の類を探していたのだろうか? そうではないだろう。壁の中に隠された箱、その中にあった手書きのレシピこそ、彼らが求めていたものに違いない。

「魔女」カタリーナ・シュラーデリン

オセックの推理が正しければ「魔女」は完全な被害者のように見える。彼女はどういった人物だったのだろうか。

オセックは再び本編の描写を参考にする。魔女のセリフは、ドイツ中部ヴェルニゲローデ特有のものだ。また、「魔女」と呼ばれているからには、魔女裁判などが行われたのではないだろうか。そう考えたオセックは1962年9月、ヴェルニゲローデの市公文書館に赴き、「カタリーナ・シュラーデリン」という女性の裁判記録を発見する。そして現地にて、彼女の生涯が判明したのである。

カタリーナ・シュラーデリンは1618年、ヴェルニゲローテにて誕生し、16歳のころから4年間、クヴェトリンブルクにある僧院の厨房で働いていたという。

その後南ドイツ各地を渡り歩き、彼女自慢のレープクーヘンを販売していたのだが、ある日ニュルンベルクにて店を出していたところ、公爵家お抱えのパン職人ハンス・メツラーに見初められ、求婚される。しかし彼の目的は彼女自身ではなくレープクーヘンのレシピであることを見抜いた彼女は、申し出を拒絶した。

その後もしつこく彼女に付きまとうハンスに嫌気がさし、1647年初頭にカタリーナは彼から逃げるようにシュペッサートの一軒家に移り住むことになる。

だが1647年7月15日、カタリーナは魔女裁判にかけられることになる。密告者はハンス・メツラー。その動機は彼女の所有物であるレシピを密告者特権で確保することだろう。

辛くもこの裁判では無罪を勝ち取った彼女であったが…… その末路は、オセックが推理した通りだ。彼女は哀れにも殺されてしまった。だが、そのレシピは遺されていた。彼女の誇りは守られたのだ。それだけは救いなのかもしれない。

さて、この事件をグリム兄弟が「改作」した背景だが、ヤーコプ71からヴィルヘルム81にあてた手紙(もちろん偽作82)によると、もとの物語はあまりにも残酷なので、魔女を年老いた女にして、猫やカラスを付け加えれば、意味のある教訓に満ちた効果が生まれるのでは、と書かれているという。オセックは訓育的な動機により改変したのではと推測している。

いたずらの告白とその後

以上が、1963年に出版された『ヘンゼルとグレーテルの真相』のかいつまんだ紹介である。本書は邦訳版も刊行されているので、興味がある方はぜひ読んでほしいところだ。明かされる真実が劇的で面白いのはもちろんだが、本コラムでは完全に省いた魔女裁判の様子などは非常に凝っていて読みごたえがある83

ただ、ここまで読んだ方なら大騒動が巻き起こった理由はよくわかるだろう。ちりばめられたパロディーの要素がかすむほどにストーリーが面白く、そしてリアリティがありすぎたのだ。正直、私自身本作がパロディーであるという事前情報がないまま読んでいたら、てっきり本当なのではと信じてしまいそうだった。

結局、1964年の3月にテレビでパロディーであると種明かしがされたものの、出版社には真相を問いただす手紙が何千通も届いた。回答のために3人の追加人員が投入されるほどだった。憤慨した一人の読者が、トラクスラーを詐欺罪で告発する事態にまで発展したという84

『ヘンゼルとグレーテルの真相』は、長年にわたり何度も再販され、1987年には映画化も実現した85。トラクスラーのもとには、現在に至っても問い合わせが来ているようだ。本作は、現代では当時の知的流行を模倣した作品として高く評価される一方で、この物語を真実としてとらえてしまう人がいまだに生み出されてもいる。また、本作に触発され、似たような手法で町おこしを行う自治体86も出てきているという。


以上が、明確なパロディーだったはずが、面白すぎたがゆえに事実として受容されてしまった『ヘンゼルとグレーテルの真相』の物語である。いかがだっただろうか、個人的にはやはり日本での『本当は恐ろしいグリム童話』の影響と比べた時、両者ともに「面白すぎた」ことが受容の原因となってしまったところが興味深いと思う。また、二次創作文芸であるがゆえに『本当は恐ろしい~』は元の文芸イメージを汚したと批判にさらされることが多い一方、『~の真相』は考古学研究のパロディーであるがゆえに知的であると評価されていることが多い。表現手法の違いによって後の評価が異なる点にも面白さを感じる。

面白さ、わかりやすさは時に真実を凌駕してしまう。特に「隠された真実」や「謎を解き明かす発見」などを知ったとき、多くの人は知的興奮を覚える。だからこそ一歩引いて、疑う目を持つことが大切なのだろう。そして騙されたと気づいたとき、その巧妙さをあえて楽しむという余裕も持ちたいものだ。

本コラムの締めとして、印象的だった本書の評を引用する。

これまでに学問への盲目的な信頼を、これほど面白く、かつ洗練されたしかたで虚仮にしたものがあっただろうか。

シュトゥッガルト・ニュース、1964年4月4日


参考文献

注釈


  1. 桐生操『本当は恐ろしいグリム童話』(KKベストセラーズ、1998年)。シリーズ累計250万部を突破し、「グリム童話=ドロドロで残酷」という日本独自のイメージを決定づけた 

  2. ドイツの伝統的な焼き菓子。ハチミツ、ナッツ、スパイスをふんだんに使ったクッキー 

  3. グリム童話の編者の一人。1863年没 

  4. バイエルン州とヘッセン州の間に位置する実在する森 

  5. 当時、ドイツは資本主義の西ドイツと社会主義の東ドイツに分かれていた 

  6. 考古学の発見と歴史を“ロマンと学問”で描き出した世界的ベストセラーの考古学啓蒙書 

  7. デーネッケ博士は意図を知らされていなかったため、本書について当初好意的に答えていたが、最終的にはボロクソに非難することになる。トラクストラーとはのちに和解 

  8. ドイツの大手食品企業 

  9. 不思議な老婆からもらった魔法の鍋から出てくるおかゆが溢れかえり、町中がおかゆまみれになる童話 

  10. ドイツの考古学者。ギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイアの遺跡を発掘したと主張したことで有名 

  11. 『ヘンゼルとグレーテル』内部の描写からオセックが推理した方角 

  12. 本編で描写されている帰路の川や、挿絵の様子を参考にしたという 

  13. グリム童話の編者のもう一人 

  14. 長くなってしまったので念のために補足すると、紹介している本作はパロディー本である 

  15. トラクスラーとしても会心の出来だったらしいので、あえて紹介しなかった 

  16. 幸い告訴はされなかった 

  17. トラクスラーからの評価はだいぶ悪い 

  18. 「白雪姫の街」ロール・アム・マイン。この街の観光戦略は機会があったら別のコラムにまとめようと思う 

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19世紀末アメリカが熱狂した列車衝突”ショー”――恐慌が生んだ狂気のビジネス

列車と列車の正面衝突。あまりにも破壊的で、恐ろしい事故である。実際に発生するとなると、とてつもない数の人々が犠牲となり、思わず目をそむけたくなるような凄惨な現場が思い浮かばれるだろう。ましてや衝突の瞬間など、好き好んで見たいと思う人などどれだけいることか。だが、列車の中には誰もいない、安全性が担保された「ショー」だとしたら……? 「それならちょっと見てみたい」と思ってしまった人は、残念ながら生まれてくるのが100年ほど遅かったようだ。本コラムでは、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカで流行した、蒸気機関車同士を正面衝突させる、前代未聞のショーをご紹介しよう。


怪しいセールスマン

1893年2月20日、フィラデルフィア・アンド・リーディング鉄道破産。当時アメリカ東部最大級を誇っていた鉄道帝国の崩壊に始まるアメリカ恐慌は、深刻なダメージを鉄道業界に与えた87。破産を免れた各鉄道会社も、立て直しは必須。何とかして、自社の鉄道を乗客に使ってもらわねば……

そんな状況の中、一人のセールスマンが、鉄道会社に奇妙な提案をしているという。男の名前はA.L.ストリーター。元鉄道マン88の鉄道機器販売員だという彼が提案している内容は「宣伝活動として、貴社の保有する機関車を正面衝突させてみませんか」というものだった。

機関車同士の正面衝突。確かにインパクトは凄そうだ。だが、それがどれだけ宣伝になるのだろう?そんな前例のない無謀な提案に、二の足を踏む鉄道会社たちであったが、ついにクリーブランド・カントン・アンド・サザン鉄道が興味を示す。車庫に転がっている、錆びた旧型の車両をぶつけるだけで利益が出るなら安いものだ。

最初の列車衝突ショー

こうしてストリーターと鉄道会社がタッグを組んで企画した史上初の列車衝突ショーは、1895年7月20日にカントンで実施されることが決まった。ストリーターはこのショーを「アメリカで最も素晴らしいショーだ!」と宣伝し、一気にショーマンとしての立場を確立していった。

衝突させる機関車はそのままだと地味すぎる。無骨な黒い旧型車両は、赤、白、青のペンキで鮮やかに彩られた。また、列車の衝突を、現実世界で発生している対立構造になぞらえてみるのはどうだろうか。そう、あの恐慌で浮き彫りになった二つの貿易が適任だ。こうして列車は自由貿易保護貿易と名付けられ、当時の経済論争を煽るような演出がされた。

ストリーターはこのショーの観客料を75セント、会場までの運賃を15セントに設定した。来場見込みは2万人。単純に考えたら2万ドルの売り上げだ。だがショーの当日、目ざとい観客が抜け穴を発見してしまう。別に会場に入らなくても、近くの森の木に登ったら衝突は見られるということに。こうして数千人という観客が会場近くの見晴らしの良い無料の高台をうろつき始め、馬鹿正直に75セントを払った観客はわずか200人ほどだったという。

そう。ストリーターは観客を全くコントロールできていなかった。だからこそ開始直前、会場のボルテージが上がってきたタイミングで観客の暴走を許してしまう。こんな歴史的なイベント、最前列で見たほうがいいに決まっている。なんと、テンションの上がった観客たちが安全のため設置されたフェンスを乗り越え、衝突予定地点に群がってきてしまったのだ!

もはやこうなってしまったら目の前にいるのは観客ではない、単なる暴徒だ。こんな中で列車を衝突させたら、何人の死傷者が出るだろうか。ストリーターはやむなく決断する。イベントは中止だ――

こうして、最初の列車衝突ショーは、興行としては大失敗に終わってしまった。

列車衝突ショー・リベンジ

興行として大失敗に終わってしまった最初の列車衝突ショーだが、成功していたら莫大な儲けが発生したのではという金のにおいを興行師たちは嗅ぎとったのかもしれない。翌年1896年には複数の列車衝突ショーが企画・実行された。

その中で初めて成功した事例が、1896年5月30日、ストリーターによるオハイオ州のバックアイパークで行われたショーだったのは、発案者の面目躍如といったところだろうか。

彼は今回コロンバス・ホッキング・アンド・トレド鉄道と組み、機関車A.L.ストリーターW.H.フィッシャー89の衝突劇を企画した。

前回は入場料を払いたくなくて、抜け穴を探して予期せぬ場所に入り込む輩が出てきてしまったのだ。だったら抜け穴を探す労力を無駄にしてやればよい。なんと、今回は入場料を無料としたのだ。代わりに、現場を往復する特別観光列車を用意し、この乗車券で利益を確保する。バックアイパークでの集金システムは、前年の失敗を反映したものだった。

演出面でもストリーターはひと工夫を加えた。機関士の格好をしたダミー人形を、機関室に配置したのである。これにより、衝突までの緊迫感・迫力が一層高まるようになった。

そして、25,000人の観客が固唾を飲んで見守る中、時速約65キロメートルで機関車と機関車はぶつかり合い――、衝突!激しい音とともに、破片が四方八方に飛び散り、観客たちは大歓声を上げた。

興行は大成功だ!このショーは、「これまでで最もリアルで高価なスペクタクル」と全国ニュースにもなった。

こうしてリベンジに成功したショーに続くようにして、列車衝突ショーはアメリカ全土で開催されるようになっていった。そしてこの時、テキサスの草原上では史上最大、そして最も悪名高い結果を残した衝突ショーの計画が、着々と進められていた――

1日限りの街

その衝突ショーを企画したのは、W.J.クラッシュ。彼はミズーリ・カンザス・テキサス鉄道、「ケイティ鉄道」で親しまれる地元鉄道会社の客室係である。クラッシュは会社に提案する。わが社は現在恐慌後の財政立て直しが急務である。今話題の列車衝突ショーを行うのはどうだろうか、集客の見込みは2万人だ、と。折しも鉄道網拡張に伴う新型列車の導入により、旧型車両を持て余していたケイティ鉄道は、この提案を承諾したのである。

ショーの会場はテキサス州ウェイコ北部に決定した。ここでクラッシュは、とてつもないプランを繰り広げる。それはなんと、たった一日開催されるショーのために仮設の「街」を作り上げてしまうという、きわめて壮大な計画だった。街の名前は、彼にちなんで「クラッシュ」と名付けられた。

1896年の夏、テキサスの街中で「20,000ドルの衝突」と銘打った列車衝突ショーを宣伝するチラシが配布されていた。ショーの会場は「クラッシュ」という聞きなれない街だが、なんと当時アメリカ最大の面積を誇るテキサス州90のどこからでも、ケイティ鉄道を使えばたったの2ドルで連れて行ってくれるという。おまけに入場料は無料である。

ショーの準備

こうしたマーケティングは話題を呼んだようで、テキサス州の多くの新聞が連日クラッシュでの準備の様子を連日報道した。州外からの報道もあったという。さらにスポンサーとして、P.T.バーナム91のサーカス団やオリエントホテルなどの名前が連なっていた。

メディアの注目の中、ショーに向けた準備は着々と進められていく。まずは主役となる2台の機関車だ。これにはケイティ鉄道が保有する旧型車両、ボールドウィン社製999号車と1001号車が選ばれた。もちろん、もともと漆黒だった車体は、999号車が鮮やかな緑の車体と赤い縁取り、1001号車が鮮やかな赤色に緑の縁取りで彩られている。

続いてクラッシュの街並みの整備。さすがに1日限りの街に本格的な建物が建設されたわけではないようで、スポンサーのバーナムから借り受けた巨大テントを中心とした施設がメインとなったようだ。とはいえ観客相手のレストランをメインとして、レモネードスタンド、カーニバルゲーム、サイドショーなど、観客が楽しめる施設を着々と整備している。施設の中でユニークなものとして、木造の牢獄があった。これはストリーターの最初のショーで発生した暴徒化した観客を想定してのものなのかもしれない92

安全確認

さて、これだけ順調に進めるショーの計画だからこそ、気を付けなければいけないことがある。それは、安全性の担保である。

また、それ以外の点も抜かりがなかった93。対象の車両は旧型とはいえ、万一のことが発生しないよう万全の整備を進めていた。後方の車両が突然あらぬ方向に吹っ飛ばないよう、安全チェーンを装備させて接合部を強固させていたくらいだ。

さて、機関車衝突において何より恐れなければいけないのはボイラー室の爆発だ。ボイラー内で溜まった圧力が爆発して加速した破片が観客席に飛べば、致命的な被害をもたらしかねない。だからこそクラッシュはケイティ鉄道の技術者とともに試験を実施し、技術者たちの所感を求めた。彼らによると高速の衝突でも爆発する可能性は低いと判断した。ボイラー室爆発の危険性を訴えた技術者もいたが、彼の意見は却下されてしまった。

技術者たちの判断は正しかったのだろうか。ついに、ショーは当日を迎えることとなる。

テキサス州クラッシュの列車衝突「事故」

テキサス州内外で注目を集めた列車衝突ショーだが、おそらくケイティ鉄道の想定をはるかに超える反響があったようだ。驚くべきことに1896年9月15日当日にクラッシュの街に集まった人数は約4万人94。クラッシュが自社に吹かした倍である。観客の中にはニューヨークからテキサスへと参戦したものや、乗り放題の切符を握りしめて、列車の屋根の上にへばりついて参戦したものがいる始末だ。

午後5時過ぎ、衝突予定の二両の車両はまず衝突予定ポイントに集められ、記念撮影が行われた。その後、線路の両端となるスタート地点まで移動させられる。運命の時は近づいている。線路の中央に、白馬に載ったクラッシュが現れた。目立つように白い帽子を手で掲げている。

そして、彼は鋭く帽子を振り下ろした。

二両の機関車がスタートする。徐々に加速していく車両に乗り込んでいる機関士と乗務員は、事前に調整された設定まで蒸気を解放したことを認めると、一人残らず列車から飛び降りた。そして二両の機関車は時速約70キロメートルまで加速し……、衝突した!

とその直後、機関車からとてつもない破壊音が発生する。危険性を訴えた技術者は正しかった。ボイラー室が爆発したのだ!機関車は曲がった鋼鉄と砕けた木材の塊へと砕け散り、周囲へと吹き飛んでいく。飛んで行った破片の中には観客席まで達し、彼らを傷つけてしまったものまであった。巻き込まれた不幸な観客のうち、2名が死亡、最低でも6名が重傷を負うという大惨事が発生。衝突の瞬間をカメラに収めていた写真家のジャー・「ジョー」・ディーンは、飛んできたボルトで片目を失ったという。

こうして、安全であったはずの列車衝突「ショー」は、死者を伴う凄惨な列車衝突「事故」として幕を下ろしたのである。

事故の後

事故の後、クラッシュは即座に解雇された。またケイティ鉄道は被害者遺族からの訴訟問題を、現金と生涯鉄道パスを用いて迅速に解決した。先に挙げた写真家は、1896年に1万ドル(2025年では37万ドルに相当)の賠償金を受け取った。

ところが、である。凄惨な事故となってしまったにもかかわらず、観客たちの満足度は非常に高いものだった。爆発発生直後の混乱の中、観客たちは事故現場に押し寄せ、手をやけどしながらも「記念品」として残骸を持ち去っていくものが多発したぐらいである。どうも、被害にあわなかった者たちにとっては、本件はショーとして十分機能していたらしい。

この事故により、ケイティ鉄道は国際的に認知され、注目を集めたことで大きな利益を得たという。また、結果的に会社に貢献することになったクラッシュはケイティ鉄道に再雇用され95、その後は引退するまでケイティ鉄道一筋で働いたという。

その後と衰退

こうしたケイティ鉄道の利益を受けてか、その後約40年にわたって、列車衝突ショーはアメリカ全土で開催されるようになる。

このムーブメントを象徴する人物がJ.S.コノリー、通称「ヘッドオン・ジョー」である。クラッシュでの事故の前の週である1896年9月9日に列車衝突ショーの興行師としてのキャリアをスタート96した彼は、アメリカ全土で機関車を衝突させ続け、生涯で破壊した列車の数はなんと146両。毎年平均4両というとてつもないペースである。これはギネスブックにも載っており、おそらく今後破られることはない大記録だろう97

こうして恐慌から始まった列車衝突ショーだが、終焉をもたらしたのもまた恐慌であった。1929年のニューヨーク・ウォール街で発生した株価大暴落を皮切りに発生した世界恐慌の中、巨大な機関車同士を衝突させるショーの開催は無駄遣いだとみなされ、人気が停滞し始める。ボストンからロサンゼルス、タンパからソルトレイクシティまで全国で列車を破壊し続けたコノリーも、1932年8月27日のフーバールーズベルトとの衝突劇98を最後に、活動を終了させている。

最後に記録されている列車衝突ショーは1935年6月30日に行われたが、興行的には失敗に終わってしまったという。


以上が、恐慌に始まり恐慌に終わった狂気の興行「列車衝突ショー」の物語である。いかがだっただろうか、個人的には良い意味でも悪い意味でも安全管理が雑だった時代だからこそ、こういったとてつもないスケールの娯楽は成立していたのかと思う。クラッシュでの事故が顕著だが、安全性について懸念点があろうとも、開催を強行してしまう(そして重大事故が発生する)というのは、現代ではとても考えられない話だ。

最後に、列車衝突ショー衰退後のアメリカで流行し、現在も開催され続けている自動車の破壊エンタメデモリッション・ダービーについて、軽く紹介したいと思う。

デモリッション・ダービーは前述のとおり自動車を用いた破壊エンタメの一つで、複数台の自動車をドライバーたちがフィールドの中で意図的にぶつけ合い、最後まで稼働している車両のドライバーを競う、というものである。1946年にD.バジルがカリフォルニア州にて開催した、4人のドライバーによる「フルコンタクト」レースに端を発するというこのレースは、現在に至るまでアメリカで人気の破壊エンタメとなっている99

さて、こうしたデモリッション・ダービーだが、実は列車破壊ショーの影響を受けていた……、という記録はない。そもそも列車破壊ショーの最後の開催が1935年であるのに対し、デモリッション・ダービーの最初期の開催が1946年である。時間が11年も空いており、直接的な影響を見出すのは難しいだろう100

しかし、こうした大規模な破壊エンタメを支持するファンの心理というものは、やはり根っこが同じものなのではないかと思う。破壊への欲望は時代を超えて人間の根源的な欲求であり、それを安全な形で表現する手段を求め続けているのだろう。本コラムの締めとして、列車破壊ショーの興行師J.S.コノリーと、「フルコンタクト」レースの主催者D.バジルの息子B.バジルの言葉を引用したいと思う。

私は、普通の人のどこかに、物を壊したいという抑圧された欲求が潜んでいると信じていた

――J.S.コノリー

ファンは、破壊と混乱に惹かれている

――B.バジル


参考文献

注釈


  1. 当時、国内の鉄道会社の1/4が破産した 

  2. シカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道で車掌を務めた経験があるという 

  3. コロンバス・ホッキング・アンド・トレド鉄道の役員 

  4. 現在最大の州であるアラスカ州は1959年に加盟 

  5. 「ショービジネスの父」と呼ばれる人物。映画『グレイテスト・ショーマン』主人公のモデルとして有名 

  6. 合わせて、治安維持のために200人もの巡査を雇ったという 

  7. そもそも街を仮設するというアイデア自体、使い込まれた本線の線路ではなく、新規で敷設した支線で衝突ショーを行うという安全意識がベースになっているようにも思える 

  8. たった一日だけだが、クラッシュはテキサス州で2番目に大きな街となった 

  9. さらにボーナスも与えられたという噂さえあった 

  10. アイオワ州デモインで開催されたステートフェアでの興行 

  11. 破られてほしくもない 

  12. 奇しくも、アイオワ州デモインで開催されたステートフェアでの興行であった 

  13. 現在では競技化・技術革新により、メジャー大会の開催や選手のプロ化などの発展を遂げている 

  14. 1930年代にはフォードT型を用いた自動車の衝突イベントが行われていたという説もあるが、有力なソースは見つからなかった 

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「宴会ギャグ」から「伝統」へ――偽の布告『万歳三唱令』の数奇な運命

「万歳三唱に作法がある」――そう聞いて、あなたは信じるだろうか?1990年代末、この問いに国立国会図書館が翻弄された。『万歳三唱令』と呼ばれる明治初期の布告文書が各地に出回り、自治体から問い合わせが殺到したのだ。トイレットペーパー騒動や豊川信用金庫事件101。根拠のない噂が社会を動かす例は枚挙にいとまがないが、この『万歳三唱令』には他とは違う特徴があった。それは、知的センスとユーモアに満ちた「愉快な創作」として生まれたという点だ。では、なぜこの創作は「怪文書」として世間を混乱させるに至ったのか?国立国会図書館による注意喚起、創作者の発覚、そして創作秘話――。本コラムでは、この奇妙な文書の数奇な運命を追っていく。


世紀末の奇妙な報道

アンゴルモアの大王はやってこなかった。でも来月にはコンピュータの暴走で世界が崩壊してしまうかも…… そんな不穏な空気が漂っていた、かもしれない1999年12月11日、共同通信から奇妙な報道が出された。それは「万歳三唱の作法を騙る偽の『太政官布告』102が出回っている」というものだ。出回っている布告は『万歳三唱令』だという。同文書は「施行明治十二年四月一日 太政官布告第百六十八号」として万歳三唱の作法が細かく記載されている。該当する布告は存在せず、形式も当時の法令とやや食い違いがあるものの、御名御璽103が記載されているなど巧妙に作られている。正直、一般人には区別ができない出来だ。同文書の真偽について、1998年ごろから北海道から九州まで、全国の自治体から国立国会図書館への問い合わせが相次いでいる状況で、同図書館の担当者は「『不幸の手紙』のように広がっているのでは」「だれが何のために文書を作ったのか」と困惑しながらも、信じないよう呼びかけを行っている。

この偽の太政官布告『万歳三唱令』は、心構えとして「音頭をとるものは気力充実、態度厳正を心がけること」、「その心を一つにして心高らかに唱和すること」をうたい、続く『細部実施要領』として、以下のように手順を細かく解説している。

  1. 基本姿勢は直立不動で、両手指をまっすぐ下方に伸ばし体側にしっかりつける。
  2. 万歳発声とともに右足を半歩踏み出し、同時に両腕を垂直に高々と上げる。この際、両手指がまっすぐに伸び、かつ両手を正しく内側に向けておくことが肝要。
  3. 発声終了と同時に素早く直立不動の姿勢に戻る。
  4. この一連の動作を節度を保ち気迫を込めて三回繰り返す

万歳といえば足は動かさず、手を前向きにして上げるような動作を通常は考えるだろう。右足を前に出したり、手を内向きに上げるなど、ずいぶんと奇妙なポーズを指示しているではないか。試しにやってみてほしい。なかなか間抜けな姿勢である。

万歳作法の受容

そもそも、バンザイは「お祝い」の際に用いられるほかに、「お手上げ・降参」のポーズとしても用いられる。それを巧みに区別し形式化する内容が、「マニュアル人間」と揶揄されることもある日本人の心をくすぐるのだろうか。当時、『万歳三唱令』は美術館や宿泊施設など各所で見られたようで、鹿児島県ではとある県議がすっかり信じ込んでしまい、鹿児島市の大学合同同窓会でこの万歳作法を披露し、列席したメンバー60人にも唱和をお願いしてしまう、なんてこともあったようだ。

「右足を前に出す」という動作はともかく、「内向きに手を挙げる」ことで「お手上げ・降参」型バンザイと区別ができる、ということがよほど説得力を持ったのだろう。その後さまざまな場面で、『万歳三唱令』の手のひら内向き万歳こそ「正式な作法である」、「伝統にのっとっている」と、現在にいたるまでたびたび話題に上がっている104。皮肉なことに、偽の布告が「伝統」として受容されているのだ。また、2017年衆院選では、約半数が手のひらを内向きにして万歳をしているようで、『万歳三唱令』の影響がうかがえる。「うそから出たまこと」ということわざがあるが、まさしくこのことを言うのだろう。

創作者の告白

さて、そんなある種新しい文化を創造しつつあるといっても過言ではない『万歳三唱令』だが、2017年に新たな展開を迎える。なんと熊本日日新聞社に、「『万歳三唱令』を創作したのは我々だ」と告白する手紙が届けられたのだ。手紙の差出人は「正萬会議事務局」。60代~70代の公務員らのグループで、長く熊本県内に住んでいるという。

『万歳三唱令』誕生のきっかけは1985年ごろ。職場のゴルフ定例コンペの宴席で、誰かがふらふらと、酔いに任せて珍妙な格好の万歳を行ったことだという。それを見た「事務局」の中心人物Aが真似て、盛り上がりを受けて「右足を出す」動作を付け加えるなどして動作を確立。鉄板ネタの一発芸として、宴会等の終りには必ず実施するようになっていった。この一発芸には不思議な楽しさがあるのか、万歳をやるため、見るためだけに宴会に参加するような人も来るようになったという。ゴルフもせずにである。

このころの「万歳三唱」は単なる宴席の一発芸。なぜ、ここから精巧な太政官布告として文書化されるに至ったのだろうか。

『万歳三唱令』の創作

きっかけは1989年ごろ、Aが参加していた研修があまりにも暇だったことだという。暇な時はどうしても、どうでもいいことを思考してしまいがち。ちょうど転勤となり、ゴルフコンペの仲間たちとも疎遠になり「万歳三唱」を披露する機会がなくなっていたこともあって、あのネタを正当化するような文書を作ってしまおう、と思い立ったとのこと。どうせなら古いほうがいい。そうだ、『廃刀令』、『断髪令』と並ぶ『明治三大布告』の一つ、太政官布告『万歳三唱令』というのはどうだ――105

折しも1989年ごろ、Aは新たな仲間たちと知り合いになり、つるむようになった。彼らチームは「正しい万歳三唱を普及する国民会議」略して「正萬会議」事務局として立ち上がり、Aが初代事務局長に就任する。

『万歳三唱令』作成にあたって、まずは発令日だ。明治10年の西南戦争終結というめでたい出来事の後、ということで明治12年4月1日とした106。次に体裁。メンバーは東京出張の際に国立国会図書館を訪ねて実際の太政官布告を参照する。実物を見たところ、布告は「条」ではなく「條」という漢字を使用していたことがわかり、『万歳三唱令』にも反映することにした。

こうして構想を練り、体裁を整えた『万歳三唱令』は以下のとおりとなった。

原文:

萬歳三唱令

別紙ノ通相定来明治十二年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

右奉 勅旨布告候事

施行 明治十二年四月一日太政官布告第百六十八号

第一條 萬歳三唱ハ大日本帝國及ヒ帝國臣民ノ天壤無窮ノ發展ヲ祈念シ發聲スルモノナリ

第二條 發聲ニ當リ音頭ヲ爲ス者氣力充實態度嚴正ヲ心掛クルヘシ亦唱和スル者全員其心ヲ一ニシテ聲高ラカニ唱和スルモノトス

第三條 唱和要領細部ニ附テハ別ニ之ヲ定ム

朕萬歳三唱ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

此布告ハ明治十二年四月一日ヨリ施行スヘキコトヲ命ス

御名御璽

萬歳三唱ノ細部實施要領

一 萬歳三唱ノ基本姿勢ハ之直立不動ナリ而シテ兩手指ヲ真直下方ニ伸ハシ身体兩側面ニ完全ニ附著セシメルモノトス

二 萬歳ノ發聲ト共ニ右足ヲ半歩踏出シ同時ニ兩腕ヲ垂直ニ高々ト擧クルヘシ此際兩手指カ真直ニ伸ヒ且兩掌過チ無ク内側ニ向ク事肝要ナリ

三 萬歳ノ發聲終了ト同時ニ素早ク直立不動ノ姿勢ニ戻ルヘシ

四 以上ノ動作ヲ兩三度繰返シテ行フヘシ何レノ動作ヲ爲スニモ節度持テ氣迫ヲ込メテ行フ事肝要ナリ

要旨:

本文

別紙のとおり明治12年4月1日よりこれを施行する。

右、勅旨を奉じ、布告する。

第一条:発声は、大日本帝国と帝国臣民の永遠の発展を祈って行うこと。

第二条:音頭を取る者は、気力充実・態度厳正を心掛けること。唱和の際には、全員心を一つにして声高らかに行うこと。

第三条:細部については別に定める。(実施要領を参照)

実施要領

1.万歳三唱の基本姿勢は直立不動である。両手は指をまっすぐ下方に伸ばし体の側面にしっかり付ける。

2.万歳の発声とともに右足を半歩踏み出し、同時に両腕を垂直に高々と挙げる。その際、両手の指をまっすぐに伸ばし両掌を内側に向けておく。

3.万歳の発声終了と同時に素早く元の直立不動の姿勢に戻す。

4.以上の動作を三度繰り返して行う。いずれの動作も節度を持ち、かつ気迫を込めて行うことが肝要である。

『万歳三唱令』の配布と普及・そして封印へ

出来上がった『万歳三唱令』を片手に、正萬会議のメンバーは「万歳三唱」を宴席で実演するようになる。この時、作成した『万歳三唱令』のコピーを配布していたという。1989年頃から1990年代にかけて、熊本市、久留米市、鹿児島市など、九州各地の宴席で実演し、配布を行っていたそう。もちろん、「酒席以外では絶対にやってはいけない」とくぎを刺すことも忘れなかったそうだ。しかし、文書が人づてにコピーを繰り返される過程で、いつしか「宴会ギャグの資料」というメタデータは揮発していったようだ。九州各地で配布された文書は、出張者や転勤者を通じて、全国に広がっていったのだろう。

そして1999年、冒頭で紹介した共同通信による報道を皮切りに、地元「熊日新聞」や全国紙などでも報道されたことが転機となった。皮肉にも『万歳三唱令』作成にあたってお世話になった国立国会図書館をはじめとする関係機関各所に迷惑をかけたという反省、そして自分たちの「愉快な創作」が「不幸の手紙」のような怪文書の扱いで報じられていたことへのショック。正萬会議の活動停止および文書の封印を決断したという。


以上が、宴席の一発芸から始まり、混乱を生みつつもなぜか新たな文化を創造しつつある文書『万歳三唱令』の物語である。いかがだっただろうか。個人的には、文書作成の過程が非常に知的な取り組みになっていることが非常に面白く感じた。最後にまとめとして、以下二点について考えてみたい。

  • 揮発したメタデータ
  • 偶然一致した二つの時代背景

揮発したメタデータ

文書がもっていたメタデータは、「宴会ギャグ『万歳三唱』を規定する文書」というものである。この情報からわかることは、文書が補強したい主題は実のところ、「宴会ギャグ」そのものであって、「万歳三唱」ではないということだ。つまり宴会で受けたジェスチャーが「エイエイオー」なら「曳々応令」になっていただろうし、「ありがとうございました」なら「感謝令」になっていただろうと容易に想像できる。「万歳三唱」が受けたのは、たまたまに過ぎないのだ。しかしこのメタデータが揮発したことによって、文書の主題が「万歳三唱」ひいては「万歳の作法」へとすり替わってしまった。

偶然一致した二つの時代背景

一致した時代背景とは、「万歳は本当に明治期に作られた説がある」ことと「世紀末の日本に伝統を正当化する動きがあった」ことだ。

万歳は本当に明治期に作られた説がある

石井研堂著『明治事物起原』の「萬歳の始」によると、大日本帝国憲法発布の日、1889年(明治22年)2月11日に、明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが最初だという。これ自身は一説に過ぎないものの、『万歳三唱令』で定めた施行日と元号が偶然一致してしまったのである。創作者たちは意図していなかったことだろうが、これにより「万歳作法の規定」に対して妙なリアリティが付与されてしまったのだ。これを補強するように、施行日を明治22年に合わせた改編版まで出回っていたという。

世紀末の日本に伝統を正当化する動きがあった

共同通信の報道があった1999年、一つの法律が施行された。その名前は「国旗及び国歌に関する法律」。それまで国旗も国歌も法律で定められていなかったのか、と驚くものの、とにかく本法律のように「伝統を正当化しよう」、という機運が当時の日本にはあったようだ。このことが、「万歳作法を規定する」文書の普及に役立ったのかもしれない。

まとめ

本来は『宴会ギャグの文書』というメタデータを持つ『万歳三唱令』なのだが、普及に伴いメタデータが揮発してしまった。これにより主題が「宴会ギャグ」から「万歳そのもの」へとすり替わってしまった。ここに「万歳の起源は実際明治期だったらしい」「ちょうど日本国内で伝統を正当化する動きがあった」という背景が文書の尤もらしさを強化してしまい、全国的な広がりにつながってしまったのかな、と個人的には思う。

本来、「万歳」に定型というものはない。好きな形で喜びを表現すればよい。だったら出所は怪しいけど尤もらしいこのポーズが「うちの定型」ってことでいいんじゃないの。そんな良く言えばおおらか、悪く言えば適当な受容のされ方が、この文書の広がりからは感じられる。だがそもそも宴会ギャグとして生まれたジェスチャーである。それくらいのノリのほうが、扱いとしてはちょうどよいのかもしれない。


参考文献

注釈


  1. 1973年のトイレットペーパー騒動は「石油危機でトイレットペーパーが不足する」というデマから全国的な買い占め騒動に。1973年の豊川信用金庫事件は「豊川信用金庫が倒産する」という女子高生の冗談が広まり、実際に取り付け騒ぎが発生した事件。 

  2. 明治時代初期に設置された最高官庁『太政官』によって交付された法令。『断髪令』や『廃刀令』などが有名。 

  3. 天皇陛下の名前と印章のこと。 

  4. 例えば、2000年には朝日新聞の記者が南九州の大きな神社で神主から内向き万歳を「作法」として教わっていたり、2010年には自民党の木村太郎が当時首相の鳩山由紀夫に対し、式典中に行った前向き万歳について「正式な万歳の作法とは違うように見受けられた」と国会で質疑を行ったりしている。 

  5. 最初は天皇陛下が云々ということを考えていたが、それは不敬罪になるかもしれないという忠告から、太政官布告の体をとることにしたという。 

  6. 1年の開きがあるが、これはAが西南戦争終結を明治11年と勘違いしていたことによる。 

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