笑える漂流、笑えない現実――龍睡丸漂流譚をめぐる歴史と物語

無人島に流れ着いた十六人が、裸で暮らし、ウミガメを飼い、教室まで開いた。そんなワクワクするような漂流譚を読むと、「ほんとうに実話なのだろうか?」と身を乗り出したくなる。しかも同じ遭難を描いた別の記録を読むと、そこにある空気はまるで別物だ。笑って読める冒険譚の裏側には、どんな現実と、どんな語りの工夫が隠れていたのか。本コラムでは、『無人島に生きる十六人』と『探検実話 龍睡丸漂流記』を手がかりに、龍睡丸遭難の実像と「歴史と物語のグラデーション」をご紹介しよう。


龍睡丸

明治32年(1899年)12月、静岡の港に一隻の船が入港した。船の名前は「的矢丸」。漁業調査からの帰りである船内には、出港時にはいなかった十数人もの船員がいた。彼らは前年に同じく漁業調査のために出港していた「龍睡丸」の船員。なんと彼らは船旅の途中で嵐に巻き込まれ、4か月もの間漂流した無人島で生き抜いていたという。

龍睡丸の沈没やその後の漂流生活の様子は、須川邦彦著『無人島に生きる十六人』という漂流記によってある程度の知名度を誇っている。この本は無人島漂流という絶望的な状況にもかかわらず、なぜか全編にわたってゆかいな様子で語られており、内容も非常に面白い。次の章で、本書の内容をかいつまんでご紹介しよう。

無人島に生きる十六人

航海のきっかけ

本書は著者の須川が明治36年(1903年)5月、東京高等商船学校の実習学生であったころ、教官の中川倉吉から聞かされた体験談の紹介という体で始まる。それは中川が報效義会1で龍睡丸という船の船長をしていたころの話だという。龍睡丸は、千島列島の先端にある占守島と内地との連絡船として機能していた船であった。

千島列島というと日本の北端。冬場は雪と氷に埋もれることから、島と内地の交通は途絶えてしまう。そのため、龍睡丸は晩秋から翌年春の間は東京で係船され続けるという。これを有効活用するため、中川は明治31年(1898年)の秋、南方の太平洋沖に出かけて漁業調査を行う計画を立てたという。同様に冬の間遊ばせている船が数多くあるため、調査がうまくいけば漁業に役立つだろうとの算段だ。

準備と船出

当然、航海というものは船長一人で運用できるものではない。そこで中川は以下メンバー15名を乗組員として集めた。

  • 運転士:榊原作太郎
  • 漁業長:鈴木考吉郎
  • 水夫長
  • 報效義会会員4名
  • 練習生2名
  • 小笠原帰化人23名
  • 水夫・漁夫3名

そしてその他装備を整えた龍睡丸は、ついに明治31年12月28日、東京から太平洋へと乗り出したのである。

帰り道での出来事

ここから先、本題である漂流まで少し長いので省略する。漁は順調にいくも強い大西風にあおられてマストが折れるなどのハプニングや、何とかたどり着いた避難先のハワイ諸島で乗組員のストイックな姿勢が「世界の海員のお手本」と称賛されるなど、その内容も面白いので、気になった方はぜひ本書を読んでいただきたい。今なら青空文庫にて無料で読むことができる。

さて、漂流が始まるのはホノルル港を出た日本への帰路でのことである。明治32年(1899年)5月18日、パール・エンド・ハーミーズ礁3沖でのことである。午後10時、突如として風が凪ぎ、帆船である龍睡丸は止まってしまった。このまま流されて暗礁に乗り上げてしまうと大変なので、錨を下ろして停泊することが定石なのだが、あいにく海が深く、それもできないような状況であった。こうして船は潮のままに流されてゆくのであった。

暗礁乗り上げ

そのまま翌19日は潮に従う形で流され続けてしまう。状況が変わるのは翌20日の午前1時頃、なんと海底の深度が急速に浅くなっていったのだ。慌てて錨を下ろすも、爪が引っかからない。船は錨を引きずるようにしてなおも流されていく。ついに錨の爪が海底を引っかくも、大波に襲われた衝撃で錨鎖が引きちぎれてしまった。

そうこうする間にも龍睡丸は暗礁に近づく形で流されてゆく。そしてついに、大音量と共に大岩が船底を突き抜いてしまった。龍睡丸は、暗礁に乗り上げてしまったのだ。午前2時ごろのことであった。

難破船からの脱出

乗り上げた後も船体は波にさらされ続け、徐々に破壊されてゆく。中川は船内にある伝馬船4を守ることを命じる。夜が明けようという頃、服を着られるだけ着込んだ船員たちは、運転士と水夫長が乗り込む伝馬船を龍睡丸から下ろした。伝馬船は一瞬のうちに大波の中に消えるものの、しばらくして海面から頭を出す大岩のもとに流れ着き、運転士と水夫長もその岩の上へ這い上がることに成功。

その後、ロープを用いた運搬方法で乗組員全員の救出に成功。合わせて、漂流生活に必要と思われる米や食料などを確保。それらを即席で作ったいかだに乗せ、全員が乗り込みぎゅうぎゅうの伝馬船は岩を離れたのだった。

無人島の発見

しばらくこぎ続けると、草一本生えていない小さな島を発見する。ひとまずこの島に降り立ち無事を祝うものの、流石にこの島で生活は厳しいということで、周囲を探してみると青々と草の生えた大きな島を発見。一同は再び伝馬船に乗り、この島へと向かった。

上陸した島は木が一本も生えていないものの、草は一面に茂っていた。また、高台というものがなく、一番高くても海面から4メートルといった程度。平均すると海抜2メートルくらいという小島であった。

裸暮らし

上陸後、中川は乗組員たちを集め、ある命令を下す。なんと全員衣服を脱ぎ、裸になれ、というものであった。何年かかるかわからない島の生活中、衣服は重要である、特に冬のことも考えると、裸で暮らせる間は裸であるべきだということだった。総員、この言葉に従って衣服を脱ぎ、裸での生活がスタートしたのだった。

そして彼らはいかだの荷物の回収、井戸掘り、周囲の探索、蒸留水の製造といった作業を始めていく。

飲み水の確保

無人島生活では、まずなんといっても飲み水の確保が重要だ。そこで、彼らは珊瑚の塊と砂でかまどを拵え、蒸留水製造器を作成。探索の結果見つけた流木を薪にわずかな蒸留水を得る。燃料が大量に必要なうえ、リターンの蒸留水は少ない。木材自体が貴重な資源である現状、蒸留という方法に頼りきることはできないと判断した。

もう一つの飲み水確保手段である井戸掘りでは、深さ4メートル付近で水が湧いてきた。しかしその水色は真っ白なうえ、塩辛くて飲むことができない。いくつかポイントを変えて試してみるも結局この日は、飲める水が湧き出す井戸は作ることができなかった。

ねぐらと夜の作戦会議

拠点となるねぐらは、小さな木材を柱とし、帆布を屋根に張ったテントで作り上げた。その中に龍睡丸から引き上げた食料や道具などを入れていく。夜、天幕に集まった一同は島にいた正覚坊5で作った料理を食べ、就寝する。

皆が寝静まったころ、中川は運転士、漁業長、水夫長をテントの外に呼び出し、今後の相談をする。まずは井戸である。この島には草が生えていることから、草の根は真水を吸い上げていると推定できる。そこで、明日は草の根に近い浅い井戸を掘ることを提案。また、井戸水が白い問題に関しては、サンゴ礁ゆえに石灰成分が多いためだとし、しばらくすれば沈殿するだろうと推測した。こうして翌日の方針を決めた4人は、再びテントの中へと入っていったのである。

4つの決まり

翌朝5月21日、その日の当番を決めたのちに、中川は島での生活において守るべき4つの決まりを説明する。それは以下のようなものであった。

  1. 島で手に入るもので暮らしていく
  2. できない相談を言わない
  3. 規則正しく生活を送る
  4. 愉快な生活を心がける

一同はこれらの決まりを守ることを誓い、その日一日を忙しく働いたという。そして翌朝早くに中川は再び運転士、漁業長、水夫長をテントの外に呼び出し、以下精神面の認識共有を図った。

  • 絶望しないこと
  • 16人が団結すること
  • 島を塾や道場として青年たちを導くこと
  • 規律を守ること

火種の作成

その日の午後、蒸留水の運用停止を決定する。燃料問題のためである。代わりに、天幕に降った雨を石油の空き缶にためる工夫をした。また、薪は流木だけでは足りない。そこで、魚の骨、亀の甲といった廃棄物も薪の代わりとすることにした。

一方、火種についても課題が残っていた。火を起こすためにマッチがあるものの、数に限りがある。火を起こすために毎回使用していたらすぐに切れてしまう。双眼鏡のレンズで太陽光を集めるという方法も取れるが、これは晴れている昼間という状況に限られてしまう。そこで、彼らは缶詰めに正覚坊の油をつぎ込み、帆布をほぐした糸で作った灯心を差し込む形で灯明をつくり、これを昼も夜も消えないように守って万年灯とした。

砂山作り

5月24日の朝から、付近を通る船を見つけるための砂山作りが始まった。作成ポイントとして、島中で最も高い西海岸の草地が選ばれる。石油缶や木のバケツといったものでこのポイントに砂を運搬していく。ところが、ここで一同の体調が悪くなっていく。というのも蒸留水の運用を停止し、塩分が多く石灰成分も沈殿する井戸水に頼るようになったことから、皆ひどい下痢をするようになってしまったのだ。

この状況を救ったのは先の万年灯だった。同様に体調を崩した中川がテントで万年灯を吊るした丸太に腰を掛けたところ、万年灯からの熱が伝わったのか腰から下腹が温まり、体調が戻ったのだ。そこで乗組員たちはみな同様の方法で、腹痛を治療していったのだという。そして8日間の砂運びの後、5月31日には4メートルという砂山が出来上がった。

ここで、中川は練習生と会員にこの砂山に立った時に見渡せる水平線の距離を求めるよう課している。この状況を利用して青年たちを導く、という首脳陣の誓いを守っているわけだ。

大量の流木と見張り櫓

翌朝見張り当番から報告が入る。なんと、浜にたくさんの材木が流れ着いているのだという。おそらく、砕けた龍睡丸の残骸だろう。これらの流木をかき集め、砂山の上に櫓を組み立て始める。出来上がった櫓の高さは4メートル半。海面から数えると、12メートル半という高さになる。

こうしてかなりの高さの見張り櫓を手に入れた。通りかかった船を見つけた際に島に彼らがいることを伝えるため、砂山の上に魚の骨や亀の甲、枯草や板切れなどを用意した。これらを燃やしてかがり火を作り、船に伝える信号とするためだ。

ウミガメ牧場

7月になるとウミガメたちの産卵期となり、卵を産みに島へとやってきた。ここで冬支度として上陸した正覚坊たちを飼うことを計画する。はじめは穴を掘っていけすを用意したが、石灰質にやられたのかカメたちが全滅してしまう。

そこで、海岸に棒杭を打ち込み、綱で正覚坊の足を縛ることで、ある程度自由に移動させつつ島にとどめておく「牧場」を作り出した。何度か工夫した結果、三十数頭という正覚坊たちを牧場内で生息させることに成功したのである。

アザラシ

島には小さな半島があり、そこには小型のアザラシがいた。中川はこのアザラシの生息地に立ち入らないことを厳命。というのも肝から作る薬や、越冬のための毛皮、そして非常食、といった形で、アザラシをいざという時の備えとして機能させるためであった。そのため、不用意に近づいてアザラシたちが人間を警戒するようなことを避けたのである。

しかし、一部の動物好きな乗組員たちはこの命令を破り、アザラシたちと交友関係にあったようだった。

無人島教室

島の生活に慣れてきたころ、学科の時間が取り入れられ始めた。練習生や会員のために、中川と運転士、漁業長らが教師となり、航海術や漁業水産、数学と作文といった授業が導入された。苦心して作成した学用品を用いて、文章を書いたり、計算をしたりしたという。

また夕方になると総員ですもう、網引きといった運動を行い、海で汗を流し、夕食をとるといった順序を規則正しく繰り返し、その後は唱歌や詩吟といった余暇を楽しみ、就寝していたという。一日の疲れで、ぐっすり眠ることができ、気の弱いことを考える暇はなかったという。

船の発見と帰還

この他にも無人島での生活は様々語られているのだが、本コラムでは省略する。最終的には9月3日に見張り櫓の上から船影を発見。中川は水夫長と伝馬船当番3人を連れて伝馬船に乗りこみ見つけた帆船に漕ぎつく。偶然にもその船は日本の「的矢丸」であり、しかも船長は中川の友人であった。

こうして、的矢丸の乗組員たちに16人は救出された。明治32年(1899年)12月23日、的矢丸は駿河湾の港に入港。全員無事に帰還を果たしたのである。

感想と疑問

以上が、『無人島に生きる十六人』のかいつまんだ紹介である。いかがだっただろうか。かなり省略した部分があるものの、無人島に着くなり裸になる、ウミガメ牧場といった変わった施設の作成、有事を考え安易にアザラシに手を掛けないといった規律だった行動など、漂流記の中でもユニークさが際立っている作品であることがわかるだろう。特に、島の生活に慣れてきてからは無人島で教室を開校するくだりは非常に興味深い。

個人的な感想は「非常に面白い」である。全編にわたってどこか愉快な雰囲気が漂い、無人島を明るく過ごしていく乗組員たちの様子は読んでいて気持ちが良い。結局誰も犠牲にならなかったということもあり、読後感も非常に良いものだった。一方で、こうした疑問も湧いてくるのである。「面白すぎないか」と。

ノンフィクション?

さて、本書は現在、”ノンフィクション”という位置づけで評価されている。つまり本書で紹介されているユニークなエピソードたちは事実に基づいたものである、というわけだ。一方で、事実にしてはちょっと面白すぎやしないだろうか、という疑問が湧いてくるのである。面白すぎる創作が真実と受容されてしまうケースは数多い。本作も、実はそういうケースだったりしないだろうか。

とりわけ怪しさを感じるのが本書の出版時期だ。本書は昭和23年(1948年)10月刊行と、龍睡丸の遭難事故から実に50年もの月日が経過している。著者の須川が中川から話を聞いたという明治36年(1903年)から数えても45年と、いくら何でも年月が開きすぎだ。半世紀も前に聞いた話にしては、ずいぶんと詳細に覚えているものである。

ちなみに、東京都立中央図書館のレファレンス事例によると、明治32年12月25日の読売新聞に「報効義会失踪船の帰着」の見出しで記事が載っているとのこと。そのため、龍睡丸の難破と無人島での遭難生活自体は事実としてあったらしい。では、かなりユニークな無人島での生活内容はどうなのだろうか。

遭難と同時代の資料

実は、龍睡丸の遭難事故に関しては、同時代に出版された資料が存在する。それが、大道寺謙吉著『探検実話 龍睡丸漂流記』である。こちらは明治36年(1903年)9月12日と、事故から5年経ったころに出版された書籍だ。

著者の大道寺は事故当時、南洋貿易漁獲株式会社の専務取締役という立場であり、龍睡丸の運営母体である報效義会の代表である郡司成忠とも親しかったという。著作内でも遭難期間中の報效義会内部の様子についてを会の役員が大道寺に語り、龍睡丸の目撃情報を求められるなどしている。どうやら彼は報效義会とはかなり深いつながりがある人物だったようだ。

大道寺の著作も一次史料とは言えないものの、出版年の近さや、運営母体との関係性の深さから、ある程度信頼できる資料と考えられそうだ。次の章では、須川の著作(以降『無人島に生きる』と表記)と、大道寺の著作(以降『漂流記』と表記)における、龍睡丸乗組員たちの無人島での様子を比較していこうと思う。

著作の比較

服装

なんといっても『無人島に生きる』で印象的なのは、島に到着した直後に全員が全裸になったことである。有事に備えた面白い判断だと思った内容であるが、『漂流記』を見ると、

天候温暖の所故、此時巳に夏衣を着て居つた

とある。どうやら普通に夏服を着ていたようだ。冷静に考えると、全裸でいると裂傷であったり、虫刺されであったりに遭遇するリスクが跳ね上がる。さらにそこから感染症に罹患する可能性だってあるわけで、「有事」を避けるためにも服は着ていた方が合理的と言えるだろう。

飲み水

『無人島に生きる』ではまず蒸留水製造装置の作成と井戸掘りで飲み水を確保しようとしていた。一方、『漂流記』では、

正覚坊を捕獲して、其の血に喉を潤をゝし、是れより井戸掘に掛らうとて三人、四人と別れ

とある。なんと初手で飲んだのはカメの血であった。よく考えてみると、いきなり蒸留水製造装置を作成するのは骨が折れる。それよりは島内にいる生物由来の水分の方が少ない労力で得られるだろう6。また、『漂流記』では蒸留水製造装置が登場しないものの、井戸掘りで苦戦して最終的に草の根に近いところを掘る戦略を採用した点は一致していた。

火起こしと万年灯

火起こしに関してはある程度両著書で記述が一致している。『漂流記』では、

万難を冒して破船より持出したから双眼鏡丈けは幸いに手元にあった、其上「マッチ」もある

と記載されており、これは『無人島に生きる』の内容とも矛盾しない。しかし、その後作られたという万年灯に関しては、記述が一切見当たらなかった。

体調不良からの回復

上記の通り万年灯なんてものは『漂流記』には登場しないため、下痢から回復するシーンも『無人島に生きる』とは異なっている。とはいえ、

体を温むることを工風し、交るゝ療治に餘念なかったゆえか漸次快復して

とあり、体を温めることがキーであることは一致しているようだ。

アザラシ

さて、『無人島に生きる』では中川の厳命により手出しを制限されていたアザラシだが、『漂流記』ではどうだろうか。『漂流記』では、

「ヒーヤシール」(北海道にては「トヽ」と稱する鳥)

が登場する。鳥扱いなのが面白いが、『無人島に生きる』でもアザラシについて

ヘヤシール(小型のアザラシ)

と説明されていることから、この「鳥」が、『無人島に生きる』に登場するアザラシに該当すると考えられる7。『漂流記』でもやはり乗組員たちと交友していたようだが、

終には肉は食われ皮は剝がれて、冬衣にまで用いらるゝ彼れの末路こそ憐れであった

とあることから、普通に手出ししていたようだ。考えてみると、有事の際にアザラシがいるとも限らないので、備えるなら事前から用意しておくのは当然ともいえる。

ウミガメ牧場

また、『無人島に生きる』に出てきたウミガメ牧場は、『漂流記』では影も形もなかった。ただし、

眞天翁シーヤシール等他日の食料及び衣類の料にとて、養ひ置し

と記載されており8、鳥獣の一部は有事のために養われていたようだ。

砂山作りと無人島教室

では、これまたユニークな無人島での教室開催についても、『漂流記』には登場しないのだろうか。実は、無人島教室に関しては『漂流記』にも、

午后は測量術、運用術、および英語、数學等を教授すること定べし

という形で登場している。しかし、開催の動機は『無人島に生きる』にあるような「島の生活に慣れてきた」からではない。なにせ『漂流記』の方では、この頃になると乗組員たちは「ホームシック」に掛かっており、島内全体が深い絶望に包まれていたからだ。中川は

畢竟彼れ等は暇多ければ常に空想に耽り、夜は夢に悩まさるゝなれば暇なからん事こそよからん

と考え、午前中に砂山を作り、午後から無人島教室を開催することで心身ともに疲弊させ、乗組員たちがこれ以上絶望に陥らないよう図ったのである。『無人島に生きる』とは因果が逆転しているのだ。

空気感の違いと家族

そういうわけで、『漂流記』では「愉快な生活を心がける」などといった楽観的な空気は全くない。そこには他の漂流記と変わらない、来るかわからない救助への不安、食糧難による苛立ち、そして刻一刻と迫る死への恐怖といった絶望的な空気が広がっていた9

また、『漂流記』は著者が龍睡丸の運営母体である報效義会に近しい人間ということもあり、当時の様子も描かれている。龍睡丸は4月にホノルル港を出港したと連絡を受けていたことから、8月9月には帰港するとみられていた。ところが10月を過ぎてもその様子が見られない。そのため報效義会の東京支部には乗組員の家族が押しかけ、

難船して沈んだのでしようか、宅では父も、母も、兄も、皆な死んでしまったのであらふと云ふて、毎日ゝ泣いて、、、、暮して居ります

と悲痛な言葉を残していたようだ。

人数

そもそもの話として、乗組員の人数が違う。『無人島に生きる』では乗組員は16人であるのに対し、なんと『漂流記』は一人多い17人となっている。小笠原帰化人が前者は3人であるのに対し、後者は4人になっているのだ。ただしこれに関しては先に上げたレファレンス事例を見ても、どちらが正しいと断定できる史料は確認できなかったようだ10

比較結果

以上が、『無人島に生きる』と『漂流記』の無人島生活の描写の違いである。正直、思っていた以上に差異があって驚いた。空気感がまるっきり違うため、読み味が全然違う。先に述べた通り、『漂流記』の方も一次史料ではないため描写がどれだけ信頼性があるか11、という点には慎重になるべきだろう。しかし、差異がある部分は『漂流記』の方が妥当性が高い記述が多い。そのため、やはり『無人島に生きる』はかなり創作色が強い、言ってしまえば実話をもとにした”漂流小説”という位置付けが正しいのではないのかなと感じた。さすがにノンフィクションとしての位置付けは再検討の余地がありそうだ。ちょっと残念。


以上が明治期に発生した龍睡丸の難破事故及びその後の乗組員たちの遭難生活、そしてこの出来事を題材とした二つの漂流記の物語である。いかがだっただろうか。個人的には、やはり『無人島に生きる』が完全なノンフィクションではなく、創作されたイベントが数多く挿入されている可能性が高い点が残念に思えてならない。

しかし、だからと言って『無人島に生きる』の魅力が損なわれた、ということはないと思う。本書で挿入されたと思わしきイベントの数々は、本来絶望的な状況を希望に変え、規律を守り、力強く生き抜くためのものだ。それはとても魅力的であり、物語としてもなお完成度が高いのである。

また、二つの漂流記を比較したことで、”史実”が時を経て”物語”となる過程が垣間見えたように思え、非常に面白かった。単なる記録にとどまらない、歴史と物語のグラデーションを読むことができたように思う。そう考えると、この二作の比較で真に得られたのは、ノンフィクションか小説かという二者択一ではなく、歴史が語り継がれることで変質し、物語へと至るということなのかもしれない。


参考文献

注釈


  1. 海軍大尉出身の探検家である郡司成忠が結成した、北千島(千島列島)開拓や探検・漁業振興を目的とする民間の開拓団体 

  2. 1876年の日本領有宣言以前に小笠原諸島へ入植し、1882年までに日本へ帰化した欧米系・太平洋系先住民とその子孫 

  3. ハワイ諸島北部の環礁 

  4. 本船と岸との間で荷物や人を運ぶために用いられた小型の木造和船 

  5. アオウミガメのこと 

  6. 肉はそのまま食料にもなる 

  7. おそらくオットセイの英語「FurSeal」を指していると思われる 

  8. 眞天翁はアホウドリのこと。シーヤシールはヒーヤシールの表記ゆれか 

  9. 釣りがうまくいったりとしたときなどのポジティブなイベント発生時はさすがに楽しそうな雰囲気であった 

  10. 明治32年4月10日の朝日新聞記事「龍睡丸布哇に至る」の見出しは「船長以下16名、内小笠原4人」とあり、どちらとも解釈できる内容となっている 

  11. 例えば会話のシーンなどは著者の大道寺の創作が多いような気がする。

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