19世紀末アメリカが熱狂した列車衝突”ショー”――恐慌が生んだ狂気のビジネス

列車と列車の正面衝突。あまりにも破壊的で、恐ろしい事故である。実際に発生するとなると、とてつもない数の人々が犠牲となり、思わず目をそむけたくなるような凄惨な現場が思い浮かばれるだろう。ましてや衝突の瞬間など、好き好んで見たいと思う人などどれだけいることか。だが、列車の中には誰もいない、安全性が担保された「ショー」だとしたら……? 「それならちょっと見てみたい」と思ってしまった人は、残念ながら生まれてくるのが100年ほど遅かったようだ。本コラムでは、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカで流行した、蒸気機関車同士を正面衝突させる、前代未聞のショーをご紹介しよう。


怪しいセールスマン

1893年2月20日、フィラデルフィア・アンド・リーディング鉄道破産。当時アメリカ東部最大級を誇っていた鉄道帝国の崩壊に始まるアメリカ恐慌は、深刻なダメージを鉄道業界に与えた1。破産を免れた各鉄道会社も、立て直しは必須。何とかして、自社の鉄道を乗客に使ってもらわねば……

そんな状況の中、一人のセールスマンが、鉄道会社に奇妙な提案をしているという。男の名前はA.L.ストリーター。元鉄道マン2の鉄道機器販売員だという彼が提案している内容は「宣伝活動として、貴社の保有する機関車を正面衝突させてみませんか」というものだった。

機関車同士の正面衝突。確かにインパクトは凄そうだ。だが、それがどれだけ宣伝になるのだろう?そんな前例のない無謀な提案に、二の足を踏む鉄道会社たちであったが、ついにクリーブランド・カントン・アンド・サザン鉄道が興味を示す。車庫に転がっている、錆びた旧型の車両をぶつけるだけで利益が出るなら安いものだ。

最初の列車衝突ショー

こうしてストリーターと鉄道会社がタッグを組んで企画した史上初の列車衝突ショーは、1895年7月20日にカントンで実施されることが決まった。ストリーターはこのショーを「アメリカで最も素晴らしいショーだ!」と宣伝し、一気にショーマンとしての立場を確立していった。

衝突させる機関車はそのままだと地味すぎる。無骨な黒い旧型車両は、赤、白、青のペンキで鮮やかに彩られた。また、列車の衝突を、現実世界で発生している対立構造になぞらえてみるのはどうだろうか。そう、あの恐慌で浮き彫りになった二つの貿易が適任だ。こうして列車は自由貿易保護貿易と名付けられ、当時の経済論争を煽るような演出がされた。

ストリーターはこのショーの観客料を75セント、会場までの運賃を15セントに設定した。来場見込みは2万人。単純に考えたら2万ドルの売り上げだ。だがショーの当日、目ざとい観客が抜け穴を発見してしまう。別に会場に入らなくても、近くの森の木に登ったら衝突は見られるということに。こうして数千人という観客が会場近くの見晴らしの良い無料の高台をうろつき始め、馬鹿正直に75セントを払った観客はわずか200人ほどだったという。

そう。ストリーターは観客を全くコントロールできていなかった。だからこそ開始直前、会場のボルテージが上がってきたタイミングで観客の暴走を許してしまう。こんな歴史的なイベント、最前列で見たほうがいいに決まっている。なんと、テンションの上がった観客たちが安全のため設置されたフェンスを乗り越え、衝突予定地点に群がってきてしまったのだ!

もはやこうなってしまったら目の前にいるのは観客ではない、単なる暴徒だ。こんな中で列車を衝突させたら、何人の死傷者が出るだろうか。ストリーターはやむなく決断する。イベントは中止だ――

こうして、最初の列車衝突ショーは、興行としては大失敗に終わってしまった。

列車衝突ショー・リベンジ

興行として大失敗に終わってしまった最初の列車衝突ショーだが、成功していたら莫大な儲けが発生したのではという金のにおいを興行師たちは嗅ぎとったのかもしれない。翌年1896年には複数の列車衝突ショーが企画・実行された。

その中で初めて成功した事例が、1896年5月30日、ストリーターによるオハイオ州のバックアイパークで行われたショーだったのは、発案者の面目躍如といったところだろうか。

彼は今回コロンバス・ホッキング・アンド・トレド鉄道と組み、機関車A.L.ストリーターW.H.フィッシャー3の衝突劇を企画した。

前回は入場料を払いたくなくて、抜け穴を探して予期せぬ場所に入り込む輩が出てきてしまったのだ。だったら抜け穴を探す労力を無駄にしてやればよい。なんと、今回は入場料を無料としたのだ。代わりに、現場を往復する特別観光列車を用意し、この乗車券で利益を確保する。バックアイパークでの集金システムは、前年の失敗を反映したものだった。

演出面でもストリーターはひと工夫を加えた。機関士の格好をしたダミー人形を、機関室に配置したのである。これにより、衝突までの緊迫感・迫力が一層高まるようになった。

そして、25,000人の観客が固唾を飲んで見守る中、時速約65キロメートルで機関車と機関車はぶつかり合い――、衝突!激しい音とともに、破片が四方八方に飛び散り、観客たちは大歓声を上げた。

興行は大成功だ!このショーは、「これまでで最もリアルで高価なスペクタクル」と全国ニュースにもなった。

こうしてリベンジに成功したショーに続くようにして、列車衝突ショーはアメリカ全土で開催されるようになっていった。そしてこの時、テキサスの草原上では史上最大、そして最も悪名高い結果を残した衝突ショーの計画が、着々と進められていた――

1日限りの街

その衝突ショーを企画したのは、W.J.クラッシュ。彼はミズーリ・カンザス・テキサス鉄道、「ケイティ鉄道」で親しまれる地元鉄道会社の客室係である。クラッシュは会社に提案する。わが社は現在恐慌後の財政立て直しが急務である。今話題の列車衝突ショーを行うのはどうだろうか、集客の見込みは2万人だ、と。折しも鉄道網拡張に伴う新型列車の導入により、旧型車両を持て余していたケイティ鉄道は、この提案を承諾したのである。

ショーの会場はテキサス州ウェイコ北部に決定した。ここでクラッシュは、とてつもないプランを繰り広げる。それはなんと、たった一日開催されるショーのために仮設の「街」を作り上げてしまうという、きわめて壮大な計画だった。街の名前は、彼にちなんで「クラッシュ」と名付けられた。

1896年の夏、テキサスの街中で「20,000ドルの衝突」と銘打った列車衝突ショーを宣伝するチラシが配布されていた。ショーの会場は「クラッシュ」という聞きなれない街だが、なんと当時アメリカ最大の面積を誇るテキサス州4のどこからでも、ケイティ鉄道を使えばたったの2ドルで連れて行ってくれるという。おまけに入場料は無料である。

ショーの準備

こうしたマーケティングは話題を呼んだようで、テキサス州の多くの新聞が連日クラッシュでの準備の様子を連日報道した。州外からの報道もあったという。さらにスポンサーとして、P.T.バーナム5のサーカス団やオリエントホテルなどの名前が連なっていた。

メディアの注目の中、ショーに向けた準備は着々と進められていく。まずは主役となる2台の機関車だ。これにはケイティ鉄道が保有する旧型車両、ボールドウィン社製999号車と1001号車が選ばれた。もちろん、もともと漆黒だった車体は、999号車が鮮やかな緑の車体と赤い縁取り、1001号車が鮮やかな赤色に緑の縁取りで彩られている。

続いてクラッシュの街並みの整備。さすがに1日限りの街に本格的な建物が建設されたわけではないようで、スポンサーのバーナムから借り受けた巨大テントを中心とした施設がメインとなったようだ。とはいえ観客相手のレストランをメインとして、レモネードスタンド、カーニバルゲーム、サイドショーなど、観客が楽しめる施設を着々と整備している。施設の中でユニークなものとして、木造の牢獄があった。これはストリーターの最初のショーで発生した暴徒化した観客を想定してのものなのかもしれない6

安全確認

さて、これだけ順調に進めるショーの計画だからこそ、気を付けなければいけないことがある。それは、安全性の担保である。

また、それ以外の点も抜かりがなかった7。対象の車両は旧型とはいえ、万一のことが発生しないよう万全の整備を進めていた。後方の車両が突然あらぬ方向に吹っ飛ばないよう、安全チェーンを装備させて接合部を強固させていたくらいだ。

さて、機関車衝突において何より恐れなければいけないのはボイラー室の爆発だ。ボイラー内で溜まった圧力が爆発して加速した破片が観客席に飛べば、致命的な被害をもたらしかねない。だからこそクラッシュはケイティ鉄道の技術者とともに試験を実施し、技術者たちの所感を求めた。彼らによると高速の衝突でも爆発する可能性は低いと判断した。ボイラー室爆発の危険性を訴えた技術者もいたが、彼の意見は却下されてしまった。

技術者たちの判断は正しかったのだろうか。ついに、ショーは当日を迎えることとなる。

テキサス州クラッシュの列車衝突「事故」

テキサス州内外で注目を集めた列車衝突ショーだが、おそらくケイティ鉄道の想定をはるかに超える反響があったようだ。驚くべきことに1896年9月15日当日にクラッシュの街に集まった人数は約4万人8。クラッシュが自社に吹かした倍である。観客の中にはニューヨークからテキサスへと参戦したものや、乗り放題の切符を握りしめて、列車の屋根の上にへばりついて参戦したものがいる始末だ。

午後5時過ぎ、衝突予定の二両の車両はまず衝突予定ポイントに集められ、記念撮影が行われた。その後、線路の両端となるスタート地点まで移動させられる。運命の時は近づいている。線路の中央に、白馬に載ったクラッシュが現れた。目立つように白い帽子を手で掲げている。

そして、彼は鋭く帽子を振り下ろした。

二両の機関車がスタートする。徐々に加速していく車両に乗り込んでいる機関士と乗務員は、事前に調整された設定まで蒸気を解放したことを認めると、一人残らず列車から飛び降りた。そして二両の機関車は時速約70キロメートルまで加速し……、衝突した!

とその直後、機関車からとてつもない破壊音が発生する。危険性を訴えた技術者は正しかった。ボイラー室が爆発したのだ!機関車は曲がった鋼鉄と砕けた木材の塊へと砕け散り、周囲へと吹き飛んでいく。飛んで行った破片の中には観客席まで達し、彼らを傷つけてしまったものまであった。巻き込まれた不幸な観客のうち、2名が死亡、最低でも6名が重傷を負うという大惨事が発生。衝突の瞬間をカメラに収めていた写真家のジャー・「ジョー」・ディーンは、飛んできたボルトで片目を失ったという。

こうして、安全であったはずの列車衝突「ショー」は、死者を伴う凄惨な列車衝突「事故」として幕を下ろしたのである。

事故の後

事故の後、クラッシュは即座に解雇された。またケイティ鉄道は被害者遺族からの訴訟問題を、現金と生涯鉄道パスを用いて迅速に解決した。先に挙げた写真家は、1896年に1万ドル(2025年では37万ドルに相当)の賠償金を受け取った。

ところが、である。凄惨な事故となってしまったにもかかわらず、観客たちの満足度は非常に高いものだった。爆発発生直後の混乱の中、観客たちは事故現場に押し寄せ、手をやけどしながらも「記念品」として残骸を持ち去っていくものが多発したぐらいである。どうも、被害にあわなかった者たちにとっては、本件はショーとして十分機能していたらしい。

この事故により、ケイティ鉄道は国際的に認知され、注目を集めたことで大きな利益を得たという。また、結果的に会社に貢献することになったクラッシュはケイティ鉄道に再雇用され9、その後は引退するまでケイティ鉄道一筋で働いたという。

その後と衰退

こうしたケイティ鉄道の利益を受けてか、その後約40年にわたって、列車衝突ショーはアメリカ全土で開催されるようになる。

このムーブメントを象徴する人物がJ.S.コノリー、通称「ヘッドオン・ジョー」である。クラッシュでの事故の前の週である1896年9月9日に列車衝突ショーの興行師としてのキャリアをスタート10した彼は、アメリカ全土で機関車を衝突させ続け、生涯で破壊した列車の数はなんと146両。毎年平均4両というとてつもないペースである。これはギネスブックにも載っており、おそらく今後破られることはない大記録だろう11

こうして恐慌から始まった列車衝突ショーだが、終焉をもたらしたのもまた恐慌であった。1929年のニューヨーク・ウォール街で発生した株価大暴落を皮切りに発生した世界恐慌の中、巨大な機関車同士を衝突させるショーの開催は無駄遣いだとみなされ、人気が停滞し始める。ボストンからロサンゼルス、タンパからソルトレイクシティまで全国で列車を破壊し続けたコノリーも、1932年8月27日のフーバールーズベルトとの衝突劇12を最後に、活動を終了させている。

最後に記録されている列車衝突ショーは1935年6月30日に行われたが、興行的には失敗に終わってしまったという。


以上が、恐慌に始まり恐慌に終わった狂気の興行「列車衝突ショー」の物語である。いかがだっただろうか、個人的には良い意味でも悪い意味でも安全管理が雑だった時代だからこそ、こういったとてつもないスケールの娯楽は成立していたのかと思う。クラッシュでの事故が顕著だが、安全性について懸念点があろうとも、開催を強行してしまう(そして重大事故が発生する)というのは、現代ではとても考えられない話だ。

最後に、列車衝突ショー衰退後のアメリカで流行し、現在も開催され続けている自動車の破壊エンタメデモリッション・ダービーについて、軽く紹介したいと思う。

デモリッション・ダービーは前述のとおり自動車を用いた破壊エンタメの一つで、複数台の自動車をドライバーたちがフィールドの中で意図的にぶつけ合い、最後まで稼働している車両のドライバーを競う、というものである。1946年にD.バジルがカリフォルニア州にて開催した、4人のドライバーによる「フルコンタクト」レースに端を発するというこのレースは、現在に至るまでアメリカで人気の破壊エンタメとなっている13

さて、こうしたデモリッション・ダービーだが、実は列車破壊ショーの影響を受けていた……、という記録はない。そもそも列車破壊ショーの最後の開催が1935年であるのに対し、デモリッション・ダービーの最初期の開催が1946年である。時間が11年も空いており、直接的な影響を見出すのは難しいだろう14

しかし、こうした大規模な破壊エンタメを支持するファンの心理というものは、やはり根っこが同じものなのではないかと思う。破壊への欲望は時代を超えて人間の根源的な欲求であり、それを安全な形で表現する手段を求め続けているのだろう。本コラムの締めとして、列車破壊ショーの興行師J.S.コノリーと、「フルコンタクト」レースの主催者D.バジルの息子B.バジルの言葉を引用したいと思う。

私は、普通の人のどこかに、物を壊したいという抑圧された欲求が潜んでいると信じていた

――J.S.コノリー

ファンは、破壊と混乱に惹かれている

――B.バジル


参考文献

注釈


  1. 当時、国内の鉄道会社の1/4が破産した 

  2. シカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道で車掌を務めた経験があるという 

  3. コロンバス・ホッキング・アンド・トレド鉄道の役員 

  4. 現在最大の州であるアラスカ州は1959年に加盟 

  5. 「ショービジネスの父」と呼ばれる人物。映画『グレイテスト・ショーマン』主人公のモデルとして有名 

  6. 合わせて、治安維持のために200人もの巡査を雇ったという 

  7. そもそも街を仮設するというアイデア自体、使い込まれた本線の線路ではなく、新規で敷設した支線で衝突ショーを行うという安全意識がベースになっているようにも思える 

  8. たった一日だけだが、クラッシュはテキサス州で2番目に大きな街となった 

  9. さらにボーナスも与えられたという噂さえあった 

  10. アイオワ州デモインで開催されたステートフェアでの興行 

  11. 破られてほしくもない 

  12. 奇しくも、アイオワ州デモインで開催されたステートフェアでの興行であった 

  13. 現在では競技化・技術革新により、メジャー大会の開催や選手のプロ化などの発展を遂げている 

  14. 1930年代にはフォードT型を用いた自動車の衝突イベントが行われていたという説もあるが、有力なソースは見つからなかった 

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