1776年4月、前年に勃発したアメリカ独立戦争の最中、イングランドの貴族院では戦争そっちのけである一つの裁判の行方に注目が集まっていた。被告人はかつて社交界で名を馳せた美女。彼女に突きつけられた罪状は「重婚」。貴族にとって政治的にも経済的にも重要な戦略の一つである”婚姻”だが、なんと彼女は伯爵と公爵という二人の貴族と婚姻関係にある、と訴えられているのだ。本コラムではイングランド史上唯一、貴族として重婚の罪で裁かれ、その後もふてぶてしく”公爵夫人”を自称し続けたエリザベス・チャドリーのハチャメチャな人生をご紹介しよう。
幼少期
エリザベスは1720年、デヴォンシャー州にて生まれた。彼女の父はチェルシー病院の副総督トーマス・チャドリー大佐、母はドセットシャー州チャルミントン生まれのハリエットである。小規模ながら名誉ある地主階級の娘として生まれたものの、南海泡沫事件1の影響で財産のほとんどを失い、さらに1726年に父が亡くなるという不幸に見舞われる。
こうして幼少期は田舎で恵まれない生活を余儀なくされたエリザベスだったが、彼女には一つ大きな特徴があった。とてつもない美少女だったのだ。15歳のころ天然痘にかかるも、幸いなことにその美貌は失われず2に成人する。この頃、のちにバース伯となる政治家のウィリアム・パルトニーに目を掛けられ、1740年にロンドンへと移住する。彼との関係はプラトニックなものではなく、どうやらその後何人もの貴族との浮名を流すことになるエリザベスの”コレクション”の最初の一人だったようだ。彼の助力もあり、1743年にオーガスタ王太子妃の侍女に任命される。エリザベスの宮廷デビューである。
最初の結婚
当時の宮廷はゴシップと恋愛沙汰が渦巻く魔境。そんな中でエリザベスは早速一人の貴族に見初められる。第6代ハミルトン公ジェームスである。彼は1743年、エリザベスにプロポーズする。だがタイミングが悪かった。彼はグランドツアー3の真っ最中であり、基本的にイングランドを離れていたのだ。ツアーの完遂まで待つようエリザベスに頼むものの、ライバルが現れてしまう。それが、当時陸軍中尉だった初代ブリストル伯の孫オーガスタス・ジョン・ハーヴィーである。
ウィンチェスター競馬場にて出会ったエリザベスとハーヴィーは激しく恋に落ちる。彼は当時所属していたコーンウォール号の軍務を休み、エリザベスに求婚する。しかし二人は金銭的に余裕がなく、彼女は侍女の地位を失う4わけにはいけなかった。そこで、1744年8月4日、レインストンの教区外礼拝堂にて、アミス牧師のもと夜中にひっそりと婚姻を結んだ。
出産と破局
数日後、ハーヴィーはコーンウォール号に戻って西インド諸島へと向かってしまい、イングランドに帰国したのは1746年のことだった。エリザベスは翌年夏に宮廷を休んでチェルシーに移り、秘密裏のもと男子を出産する。1747年11月2日に洗礼を受け、ヘンリー・オーガスタスと名付けられたその子は、残念ながら長くは生きられず、ほどなくして亡くなってしまった。
ハーヴィーがイングランドに戻った後から、エリザベスとの仲は急速に悪くなっていた。それはハーヴィーが海に繰り出していた期間のエリザベスの宮廷での振る舞いが原因かもしれない。エリザベスのトークは機知に富んでおり、社交界の花形として名を馳せ、同時に数多くの著名な廷臣5たちと浮名を繰り広げていた。要はめちゃくちゃ浮気していたのだ。結局、息子の出産と死亡後はエリザベスとハーヴィーの夫婦仲は完全に破綻してしまった。
記録改竄
以来エリザベスとハーヴィーの仲は完全に終わったものとなったのだが、1759年に転機が訪れる。ハーヴィーの兄ブリストル伯が病床にあり、彼には子供がいないためハーヴィーが伯爵位を継ぐ可能性が高くなったのだ。もしそうなればエリザベスは伯爵夫人となり、巨額の財産を得ることができる。
ところが秘密裏に婚姻を結んだことから、自分が伯爵夫人であるという証拠が乏しい。そこでエリザベスは考えた。なければ作ればいい。2月の初め、エリザベスはウィンチェスターに赴き、瀕死になっていたアミス牧師の枕元にてレインストン礼拝堂の婚姻記録簿の記録を改竄した。記録は叔父のジョン・メリルが管理することとなったという。
本命
こうしていつでも「私は伯爵夫人である」と名乗り出ることができる準備を進めていたエリザベスだが、これはあくまでもスペア。本命は別にあった。それが公爵夫人の座である。1750年ごろからエリザベスはキングストン公爵エヴリン・ピアポントと恋人関係にあったのだ。血筋もよく、広大な領地と莫大な収入を持つ彼は寛大で、エリザベスが数多の男性と浮気を繰り返しても彼女を愛し続けていた。
特に1760年6月4日のウェールズ公の誕生日を祝う舞踏会を開催したことで、二人の関係は広く知れ渡ることとなった。彼女の催すパーティーはロンドンで最も洗練されたファッショナブルなものであり、海外の各国の大使たちもしばしば訪れるほどだったという。
一度、キングストン公爵との仲が危うくなったことがある。それが1764年のことで、彼が浮気をしたのだ。エリザベスは当てつけのように1765年に一人ドーヴァー海峡を渡った。ベルリンではフリードリヒ二世の宮廷舞踏会でワイン二本を開けて酔っ払い、床に倒れそうになるという醜態を見せる6など、荒れた様子を見せている。結局、公爵側の懇願により、エリザベスはイングランドに戻り復縁することになった。
独身宣言と二度目の結婚
ハーヴィーとエリザベスの婚姻関係は本当に面倒くさいことになってしまった。どちらも別の恋人7と婚姻したかったのに、中途半端な婚姻状況が障壁になってしまったのだ。そこで、二人は共謀してある訴訟を起こす。それが、”ハーヴィーがエリザベスと結婚していると吹聴しているがそれは虚偽だ”というジャクティテーション訴訟8である。
結局、この試みはエリザベスにとっては9成功に終わり1769年2月11日、彼女は独身でありいかなる婚姻関係も締結されていないと判断が下された。これにより同年3月8日、エリザベスはついに特別許可のもと”公爵夫人”としてキングストン公爵との婚姻を結ぶことに成功したのである。
公爵の死と相続権
彼女のキングストン公爵との結婚は国王や政府高官から正式に祝福された。ただその夫婦生活は長く続かなかった。1773年9月23日にキングストン公爵が亡くなってしまったのだ。そして1770年に生前作成された遺言状にもとづき、エリザベスは彼の財産のすべてを相続すると定められていた。
ここで待ったをかけたのが公爵の甥のエヴリン・メドウズである。彼は公爵と死の直前に不和となってしまい、遺言では全く相続の見込みが立たなくなってしまっていた。だからこそ遺言をひっくり返すべく、最強のスキャンダルを法曹に持ち込んだ。つまりエリザベスはそもそもハーヴィーと結婚している状態で公爵と結婚した。彼女は”重婚”という重い罪を犯しており、こんな遺言は全部無効だ、というものだ。
エリザベスは当時ヨーロッパ各地を訪問中。だがこの知らせを受けてイングランドへと緊急帰国したという。弁護費用を稼ぐためにローマでピストルを使い、金や宝石を集めたというから驚きだ。
裁判での争い
1775年12月、エリザベスは1769年の判決を根拠として、訴追取り下げを求めたものの訴えは取り下げられた。裁判は貴族院ウェストミンスター・ホールにて1776年4月に始まった。かつての社交界の花形であるエリザベスの醜聞は当時相当興味を集めたようで、なんと4000もの人が詰めかけたという。
裁判は一週間程度続き、その過程で以下が証明された。
- ハーヴィーとの結婚
- 子供の誕生
- 1759年の改竄記録
これによりエリザベスが重婚であるという有罪判決が、貴族院議員119人全員のもと全会一致で下された。
しかし、ハーヴィーとの婚約を行っていたことはある意味で彼女を救った。彼は裁判前年の1775年3月20日、兄の死去によりブリストル伯を受け継いでおり、エリザベスは公的には伯爵夫人となっていたのだ。これにより、彼女は焼印といった一生消えない刑罰10を免れた。
イングランド脱出
こうして罪人となってしまったエリザベスだが、そもそもの発端は遺産問題である。エヴリンはこの後自身を拘束し、遺産を手に入れるよう画策するだろう。身動きできないような処置も取るかもしれない。そう考えたエリザベスは即座に自宅で大勢の友人や支持者を招いて盛大な晩餐会を開いた。外面的には「まあなんかあったけど解放されましたわ」と油断しまくっていると見られるパーティーを催したわけだ。
これによりエヴリンを欺きつつ、その間にエリザベスは持てるだけの資産を持ってフランスへと逃亡を果たす。その日がまさにエリザベスの出国禁止令が発令された当日。本当にギリギリのタイミングであった。
その後
イングランドを離れた彼女は、その後もふてぶてしく”キングストン公爵夫人”を自称してヨーロッパ各地を渡り歩いた。実際に”公爵夫人”として扱われることも多かったらしく、特にローマでは教皇クレメンス十四世と、ロシアではエカチェリーナ二世と謁見する11機会まで設けられたという。
詐称であることが確定しているにもかかわらず、各地で”公爵夫人”としてもてなしを受けていたのは不思議だ。この辺りはイギリス貴族界でのし上がった実力の賜物といったところだろうか12。
1788年8月26日、エリザベスはパリにて死去する。68歳であった。
以上が、”二重に高貴な被告”エリザベス・チャドリーの物語である。いかがだっただろうか。個人的には、彼女の異常なほどの悪運の強さに面白さを感じた。本コラムで紹介したエピソードだけでもこれだけあるのである。
- 天然痘にかかるが、容姿に影響がなかったこと
- 重婚の罪が確定するも、前年に伯爵夫人となっていたことで庶民の罰は受けなくて済んだこと
- 出国禁止令が発令されるも、当日逃げおおせたこと
- “公爵夫人”の自称が公になるも、他国では公爵夫人として扱われ続けたこと
さて、このエリザベスであるが、残念ながら後世の評価はあまり良くない。重婚の罪人なんだから当然といえば当然なのだが、それにしても辛辣な評価が多い。例えば1885年に発行された『英国人名辞典』では
彼女はきわめて粗野で、価値のない者たちに取り巻かれ、自分に甘くて気まぐれであり、その性格は完全に軽蔑されてもおかしくなかった
と、もうボロクソに言われている。そのあとに
“天性の寛大さ” があったために、完全には見放されなかった
と続くも、全然フォローになっていない。
ただし、これは時代背景も考えるべきだろう。彼女が生きた18世紀はいい意味でも悪い意味でもおおらかな時代だった。ところが亡くなった後の19世紀に倫理感がガラッと変わり、道徳、規範に厳格で禁欲的な時代が訪れたのだ。この価値観で考えると、確かにエリザベスはとてつもない悪女に見えることだろう。
また、現代のジェンダー論的立場で彼女を見ると、時代に翻弄された被害者、と見ることができるかもしれない(あまり詳しくないので浅い考察しかできないが)。
しかし、彼女の計算高いのか刹那的なのかよくわからない行動を追ってみると、案外全力で楽しく18世紀という時代を生き抜いてたんじゃないかな、という楽観的な推測もできる。
様々な見方ができるものの、これだけは確かだろう。エリザベス・チャドリーは、ハチャメチャな人生を送った。
参考文献
- Patrick Allitt ‘Chudleigh, Elizabeth (1720–1788)’ Encyclopedia.com https://www.encyclopedia.com/women/encyclopedias-almanacs-transcripts-and-maps/chudleigh-elizabeth-1720-1788 参照日: 2026-02-10
- Charles Littleton ‘Georgian Lords, 18th Century history, Georgian, Legal history, Social history, Women and Parliament ‘The doubly-noble prisoner’: The trial of Elizabeth Chudleigh, countess of Bristol, or duchess of Kingston?’ History of Parliament https://historyofparliament.com/2021/10/07/trial-of-elizabeth-chudleigh/ 参照日: 2026-02-13
- Catherine Ostler ‘Crazy Rich Georgians: Elizabeth Chudleigh & Friends’ Aspects of History https://aspectsofhistory.com/crazy-rich-georgians/ 参照日: 2026-02-13
- The University of Nottingham ‘The Bigamous Duchess of Kingston’ https://www.nottingham.ac.uk/manuscriptsandspecialcollections/exhibitions/online/fromparchmenttopixels/duchessofkingston.aspx 参照日: 2026-02-11
- The Grand Tour ‘Hamilton, James Hamilton, 6th Duke of’ https://www.grandtour.amdigital.co.uk/Documents/Detail/hamilton-james-hamilton-6th-duke-of/22269999 参照日: 2026-02-12
- Humphrys family tree ‘Will of Augustus John Hervey (1724-1779)’ https://www.humphrysfamilytree.com/Hunter/Misc/3.pdf 参照日: 2026-02-12
- Wikisource ‘Dictionary of National Biography, 1885-1900/Chudleigh, Elizabeth’ https://en.wikisource.org/wiki/Dictionary_of_National_Biography,_1885-1900/Chudleigh,_Elizabeth 参照日: 2026-02-09
- Wikipedia ‘Elizabeth Pierrepont, Duchess of Kingston-upon-Hull’ https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Pierrepont,_Duchess_of_Kingston-upon-Hull 参照日: 2026-02-11
注釈
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1720年にイングランドで起きた、南海会社の株価暴騰と崩壊事件 ↩
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罹患すると「あばた」と呼ばれる痕跡が顔や体に一生残る可能性が高く、容姿を損なう原因となることが多かった ↩
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数年間ヨーロッパを周遊する貴族の教育旅行 ↩
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未婚の女性であることが侍女の条件だった ↩
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流石に不倫関係にあったわけではないようだが、当時の国王ジョージ二世も彼女を気にかけ、時計や農場を贈ったりしているほどである ↩
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よほど酷かったのか、フリードリヒ二世からザクセン選帝侯未亡人に宛てた手紙の中にも記されている ↩
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ハーヴィー側が結婚したかったのは元画家でモデルのメアリー・ネスビットだという ↩
-
「自分は誰々と結婚している」という主張は事実ではないと訴える裁判 ↩
-
ハーヴィーの独身は証明されず、結局彼は本命と結ばれず生涯を終えた ↩
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重婚の刑罰は庶民と貴族で異なっており、庶民の場合は鞭打ちや焼印といった重い罰が下されていた ↩
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特にエカチェリーナ二世の配慮には感動したようで、サンクトペテルブルグに広大な土地を購入したようだ ↩
-
あるいは、彼女がイギリスから持ち出したキングストン公爵の莫大な遺産の賜物かもしれない ↩